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手にするとどこか懐かしい。尾張七宝の職人がつくったオリジナルピンバッジ―「旅する判子コレクション」記念品製作の裏側―

TEXT : 小林優太

2023.11.10 Fri

今年もやっとかめ文化祭の季節がやってきた。11年目を迎え、「やっとかめ文化祭DOORS」と名前も新たに、芸どころ名古屋の文化を体感し、楽しむ、たくさんの入り口が用意されている。2023年10月28日、「まちなか芸披露」「まち歩きなごや」「まちなか寺子屋」など定番のプログラムとともに、人気企画の「旅する判子コレクション」もスタートした。

やっとかめ文化祭の各プログラムに参加すると、特製台紙に名古屋の芸事や伝統文化をモチーフにした判子をひとつ押してもらえる。かわいらしい判子を集めていくのは楽しく、集めた数に応じて記念品が贈呈される。昨年は「有松・鳴海絞」のオリジナルデザイン手ぬぐいを製作し、好評を博した。

そして、今年も新たな記念品がつくられることに。愛知県の伝統工芸「尾張七宝」の職人が手がけたピンバッジだ。企画から完成までの道のりをのぞいてみよう。

 

江戸から続く伝統工芸品「尾張七宝」

そもそも「尾張七宝」とは、どんな工芸品か。七宝とは、金属製の素地にガラス質の釉薬で彩り豊かな模様を施したものの総称。その起源は古代メソポタミアや古代エジプトまで遡り、ユーラシア大陸を経て古代の日本に伝わったとされる。近世には、お城などの装飾物として使われた。江戸初期の姿で復元された名古屋城の本丸御殿を回ると、襖の引手などに美しい七宝を見つけられる。

尾張七宝が誕生したのは1800年代のこと。服部村(現名古屋市中川区)の梶恒吉が七宝製作の技術を編み出し、遠島村(現あま市七宝町)の林庄五郎らによってその技術が広められた。江戸から明治にかけ、現在の愛知県あま市七宝町遠島地区は、尾張七宝の一大産地として盛り上がりをみせた。尾張七宝の歴史については、以前の記事でも詳しく紹介している。ぜひこちらも合わせてご一読いただけると嬉しい(江戸の尾張で生まれた七宝のルーツを探る)。尾張七宝は、江戸時代からの伝統と技術を継承し続けてきた。

七宝町遠島の「七宝焼アートヴィレッジ」に展示されている七宝の花瓶。

 

名古屋の学校や会社でお馴染みだった七宝のバッジ

さて「七宝」というと、どんな作品を思い浮かべるだろう。一般に「七宝焼」とも呼ばれ、「〇〇焼」といえば陶製の器の一種だと思っている人もいる。けれど、建物の装飾とされてきたことからもわかるように、実に多種多彩なものに七宝の技術が使われてきた。皿、壺、盃といった器や、アクセリー、カトラリーなど、ガラス質の釉薬によって色鮮やかな模様を描くことができる。とりわけ尾張七宝は、「植線」の技術を特徴としている。素地に厚さ1mm未満の銀線を立てて貼り付けて絵に輪郭をつけていく。繊細な模様をかたどる銀色のラインは、広く「七宝」と呼ばれるものとの違いのひとつだ。

七宝の徽章(きしょう)も長くつくられてきた。徽章とは、業績を讃えたり、階級や身分を示したりするバッジやワッペンのこと。煌びやかな七宝は、人を褒め称える品としても適していたのだろう。第二次大戦後に記された尾張七宝の窯元の事業内容が窺える資料を見ると、「徽章・バッヂ」としている窯元もある。そしてその後、七宝のバッジは、学校や会社などで使われるものになっていった。
みなさんも記憶にないだろうか。学校の校章やクラスバッジ、学級委員や生徒会などのバッジ。あるいは、勤めていた企業の社章。地域や世代によって違いはあるだろうが、もしも金属の素地に艶やかに色や模様が施されていたなら、それは七宝の技術でつくられたものかもしれない。


筆者が中学生の頃に着けていた七宝のクラスバッジ。

 

七宝のバッジがいつ頃からどのように流通してきたかは定かではないものの、旧七宝町(2010年に合併であま市に)や名古屋市の周辺では、昭和から平成にかけて、多くの人が中高生の頃に手にしてきた。それは、尾張七宝の産業を礎としたことである。今回、製作したオリジナル七宝ピンバッジに、懐かしさを感じる人も少なくないのでは。

 

職人の技で生み出した「笑いの神」のバッジ

オリジナルピンバッジをつくるため、企画・開発メンバーは「七宝焼アートヴィレッジ」へ。ここでは、尾張七宝の歴史や技法の学習、作品の観覧、七宝の体験ができる。相談に乗ってくださったのは、七宝焼野口製作所の野口勝久さん。代々続く窯元の4代目。七宝職人として、体験の指導などもしている。


オリジナルピンバッジを製作いただいた野口勝久さん。

 

バッジが出来上がるまでのプロセスは大きく分けて6つ。デザイン、金型製作、施釉、焼成、研磨、メッキ処理である。まず企画・開発メンバーからデザイン案を提案した。2〜3cmの枠内でどこまで細かい表現が可能か。文字だけのもの、イラストを入れたものなど、いくつかのパターンから、扇形で「笑いの神」をモチーフにしたものに決定。重要なポイントは、金型のどこを浮き立たせるか。プレス加工で金型の表面に枠をつくり、その間に色をのせていく。今回は「植線」の工程はないが、銀線で縁取ったようなデザインを目指した。

デザインをもとに金属加工メーカーで金型が完成。続けて、ひとつずつ野口さんの手で釉薬をさしていく。黄色とオレンジの2色。ただし、黄色にもオレンジにも、いくつもの色味の異なる釉薬があり、その中から最適なものを選び出した。余談だが、黄色は世界的にも有名なあるキャラクターと同じ色を使ったそうだ。明るい印象と同時に、伝統文化の落ち着きも感じる色合いにしていただいた。


七宝焼アートヴィレッジで体験に使われる釉薬。


金属製の素地に釉薬のせて色や模様をつける。

 

施釉を終えたら、約800度の電気窯で焼き上げる。釉薬の色が変化して「笑いの神」が姿をあらわした。焼成後、手作業で研磨をして艶を出す。着物の首元や草履の鼻緒の部分は非常に細かく、釉薬が奥まで定着せずに研磨で剥がれることもあった。やり直しもしながら、細部まで丁寧に仕上げられた。


約800度の電気窯で焼き上げる。

 

最後に、専門業者によるメッキ処理。メッキは釉薬部分には着かず、金型の素地だけを美しい銀色に変える。バッジのような小物にムラなく銀メッキをまとわせるのは決して簡単ではない。メッキを扱う事業者の中でも、相応の技術を備えた職人の力が必要なのだ。こうして、やっとかめ文化祭オリジナルの七宝ピンバッジが完成した。手に取った方には、職人たちによる製作過程にも思いを馳せてもらいたい。

 

江戸時代からの伝統を受け継いできた尾張七宝。後継者不足など、将来に向けた課題も多いという。バッジ製作に関しても、窯元だけで全ての工程をまかなえず、協力業者の廃業などで困ることもあると野口さんは語る。学校や会社で、実は私たちのすぐ側にあった七宝のバッジ。尾張七宝の歴史に刻まれたひとつの文化を思い出すと同時に、今とこれからにも目を向けてみてはどうだろう。

「旅する判子コレクション」の判子は、まちなか芸披露、まちなか寺子屋、まち歩きなごやの全会場、「和菓子の原点に還って、名古屋の素朴な和菓子」参加店舗で押してもらえる。特製台紙は各イベント会場で配布。

WRITER PROFILE

優太 小林

2017年より「RACCO LABO」の屋号でフリーランスのコピーライターとして活動。 コピーライターの他に、大学講師、まちづくりコーディネーター、ラッコの魅力発信とグッズ開発に勤しむラッコ愛好家など、多彩な顔を持つパラレルワーカー。キャッチフレーズは「あま市と歴史とラッコを愛す」。