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江戸の尾張で生まれた七宝のルーツを探る

TEXT : 小林優太

2021.06.21 Mon

尾張七宝。江戸時代後期、尾張藩で花ひらいた愛知県の伝統工芸である。

金属製の素地にガラス質の釉薬を焼き付けて、豊かな彩や美しい模様を施す七宝。「七宝」の名は仏教の経典に記された「金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・真珠・マイエ」という7種類の宝物に由来。職人の手によって手がけられた七宝は、まさしく宝石のような煌めきを纏っている。
尾張七宝の歴史は江戸から始まるが、七宝の技術の起源は、紀元前の古代メソポタミアや古代エジプトにもみられるという。ヨーロッパからシルクロードを東へ。中国、朝鮮半島を経て日本へと伝わった。国内では奈良県の古墳から出土した棺の飾り金具が、現存する最古の七宝だといわれる。その後、近世以降の日本では、柱の釘隠し、襖の引手など建築物の装飾品などに七宝が使われている。京都で製作された七宝は「京七宝」とも呼ばれる。江戸時代初期に建てられた名古屋城本丸御殿にも七宝が用いられ、上洛殿の金具などで当時の姿が復元されている。
こうした伝統ある七宝の技術が、江戸時代後期から明治にかけて尾張の地で発展し、成熟し、現在にもつながる伝統を築き上げてきた。その背景にはどのようなプロセスがあったのか、ルーツを探ってみる。

尾張七宝の祖とされるのは、梶常吉(かじつねきち)という人物。1803年、尾張国海東郡服部村、現在の名古屋市中川区に生まれる。尾張藩士梶市右衛門の二男で鍍金業を営んでいた。常吉は書物で目にした七宝に関心を抱き、その技術を身につけたいと熱望したという。しかしながら、書物による独学では製法を知ることは叶わず…。そんな常吉の転機となったのは一枚の皿との出会いだった。
1832年、常吉は名古屋の骨董商・松岡屋嘉兵衛よりオランダ船が運んできた七宝の皿を手に入れた。その皿を参考に研究を重ね、翌1833年、ついに念願の七宝の小盃を完成させたのだ。1894年に刊行された『工藝鏡』にはこのように記されている。

蘭人齎す所の七宝焼に類せし皿を購求し、其器をうちくだきて製法を研究し、はじめて試に筆筒、香盆をつくりしも、或は苦し窳或は毀損し、完全の器を製すること能はざりき、されども常吉屈することなく、益々琢磨して遂に直径五寸の小盒をつくり、…

一説によれば、眺めているだけでは自らの求める器が作れなかった常吉は、貴重なサンプルであった皿を叩き割り、銅板が素地となっていること、その上にガラス製の釉薬が焼き付けられていることなどを解明したと伝えられる。松岡屋より皿を手に入れるまでには、毎日熱心に通いつめた常吉に店主が心打たれたという話も。七宝に心を奪われたひとりの青年の情熱によって、尾張七宝の歴史が始まった。常吉は、小盃を皮切りに、七宝製の小物類の製作を続け、研究を重ねていった。


梶常吉の肖像。『宝玉七宝』(名古屋市博物館、2000年)より転載。

こうして常吉が編み出した七宝製作の技術が、尾張藩領内で広がっていくこととなる。現在、愛知県あま市に「七宝町」という地域がある。常吉が生まれた中川区とも隣接するこのまちが、尾張七宝発展の地となった。
海東郡遠島村、現在の七宝町遠島に、林庄五郎という人物がいた。庄五郎は、常吉に熱心に請うて弟子となり、七宝製作の技術を教えてもらう。その際、庄五郎が常吉と結んだ、製法は一子相伝として親兄弟であっても伝えないこと、七宝の販売価格を崩さないことなどの約束が記された史料が残っている。けれど、庄五郎は遠島村の塚本貝助、塚本儀三郎などに七宝の作り方を伝えた。常吉との約束が破られたものの、結果的にこれが尾張七宝生産の盛り上がりへとつながっていく。
その後、尾張七宝の技術の発展、国内外への販路の拡大に貢献した担い手たちが次々と登場した。庄五郎に学んだ塚本貝助は、大型の七宝の製作方法や陶磁器を素地にした陶磁胎七宝の作り方を編み出したとされる。貝助は明治に入ると東京のアーレンス商会で輸出用の七宝の製造に携わり、彼の弟子たちも優秀な職人として七宝の技術を各地に広めた。
貝助に学んだ遠島村の林小伝治は、初めて外国人に尾張七宝を販売した人物だといわれる。小伝治は、海外への七宝の販路を拓くとともに、遠島近隣の業者を束ねる組合の結成や職人を育てる学校の設立にも尽力し、産業としての尾張七宝の発展にも寄与した。


神戸布引の七宝工業の写真。『川崎正蔵』(1998年)より。

1867年、パリ万博で日本の七宝が出品されたのをきっかけに、その魅力は世界中へと広がっていった。江戸の終わりから明治にかけて、数多の尾張七宝が国内外の博覧会で展示される。評価の高まりとともに、産地である遠島も栄え、海外からも多くの人たちが買い付けに訪れた。明治30年代には、七宝商工同業組合に183名の経営者が名を連ね、それぞれの窯元に何人もの職人が所属。遠島は七宝の一大産地として成長していった。


あま市七宝町に残る七宝焼原産地道標。

尾張七宝の大きな特徴は、「植線」の技術にある。素地となる銅板を成形し、墨で下絵を描く。そして、下絵の輪郭に沿って、厚さ1mmにも満たない銀線を貼り付けていく。これが「植線」だ。貼り付けた銀線の中と外にガラス製の釉薬を挿し、700〜800度で焼き上げる。これを数回繰り返し、釉薬に厚みができたら、表面を研磨し銀線がくっきりと見えるようにする。これが一般的な尾張七宝の製法。銀線と色とりどりの釉薬によって描かれた細やかな模様が実に美しい。
この基本的な製法とは異なる、多彩な技法が職人たちの手によって生み出された。上述した、陶磁器を素地とする陶磁胎七宝、焼き上げた後に素地の銅を溶かしてガラス製品のように仕上げる省胎七宝、焼成前に金属線を取り除いて釉薬をぼかす無線七宝。また、多種多彩な釉薬も開発された。「赤透」と呼ばれる赤く透明な釉薬は、海外では「ピジョンブラッド」の名で親しまれた尾張七宝を代表するもののひとつ。あま市七宝町にある七宝焼アートヴィレッジでは、こうした尾張七宝の技術や作品を実際に目にできる。


多種多彩な尾張七宝が並ぶ愛知県あま市の七宝焼アートヴィレッジ。

遠島の地で発展を遂げた尾張七宝は、地域の伝統工芸として根付き、昭和、平成、令和へと技術を受け継いでいる。1995年には、国の伝統的工芸品に指定された。現在、景気低迷による需要減、後継者不足による将来の担い手への不安など、課題も少なくない。一方で、尾張七宝の技術を受け継ぎ、新たな可能性を模索する職人たちもいる。名古屋城本丸御殿の復元においても、明治より続く安藤七宝店の職人の技によって、約400年前の七宝が現代に蘇った。私たちは今、卓越した技術の結晶を目にすることができる。

尾張で生まれ、磨き上げられてきた七宝の未来はどこへ向かうのか。ぜひ実物の尾張七宝を目にして、一緒に考えてみてもらえたら。


名古屋城本丸御殿に復元された七宝の引手。

参考/
やっとかめ文化祭2020まちなか寺子屋「名古屋城で出会う七宝の煌めき」資料(七宝焼アートヴィレッジ館長作成、2020年11月15日開催)
『あま市ものしり読本 改訂版』2013年

WRITER PROFILE

優太 小林

2017年より「RACCO LABO」の屋号でフリーランスのコピーライターとして活動。 コピーライターの他に、大学講師、まちづくりコーディネーター、ラッコの魅力発信とグッズ開発に勤しむラッコ愛好家など、多彩な顔を持つパラレルワーカー。キャッチフレーズは「あま市と歴史とラッコを愛す」。