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随所にちりばめられた“名古屋・尾張らしさ”
名古屋市役所本庁舎の意匠の妙

TEXT : 伊藤 成美

2020.12.01 Tue

「緑青(ろくしょう)色の瓦屋根」と「しゃちほこ」。これらの言葉を聞いて、人は何を思い浮かべるだろうか。私の頭にパッと出てきたのは、名古屋城だった。白い壁に映える、銅製の青みを帯びた緑色の瓦。屋根のてっぺんには、金のしゃちほこが据えられている、名古屋のシンボルだ。

しかし、この言葉にひもづく建物は他にもある。それは名古屋城のすぐ近くにある、名古屋市役所本庁舎だ。中央の塔を見やると「緑青色の屋根瓦」と「しゃちほこ」を冠している。名古屋城は銅版葺であるのに対して、名古屋市役所で葺かれているのは陶製の施釉瓦。瓦と同じ緑青色のしゃちほこは、名古屋城のように2対ではなく、屋根の頭頂部から四方に視線を向ける「にらみ鯱」がある。

屋根部分に目を凝らせば、鴟尾のようなものも見て取れる。ますます城を思わせる。モチーフだけ切り取ると、名古屋城と名古屋市役所本庁舎は共通する点が多いといえる。それはなぜなのだろうか。

 

ひとりの建築家が向けた、故郷へのまなざし

現在の本庁舎は3代目で、以前は栄〜新栄付近に構えていたが、1928(昭和3)年の陸軍騎兵第三連隊等移転により、現在の庁舎が位置する三の丸の場所へ移転が決定した。この移転・新庁舎建設は、昭和天皇御大典事業のひとつとして進められ、庁舎の設計は懸賞募集で公募する運びとなった。公募に際して、名古屋における有識者から「中京の伝統的な風趣と新時代を表徴する建築様式を結びつけた優秀案を求むべきである」との意見が起こり、金賞採決にも影響を与えたという。
そしてその結果、見事金賞1等を獲得したのは、建築家・平林金吾氏の設計だった。平林氏は愛知県西春日井郡豊山村(現在の西春日郡豊山町)出身で、伯母の養子となる11歳までを愛知で過ごした。過去の文献には「毎日お城を眺めて育ちましたので、あの金鯱城が頭にコビリついていました」とあり、さらに「だから応募にあたってお城を取入れてローカル・カラーを鮮明に浮き出すことに苦心しました」と続ける。加えて当時の建築界では東洋趣味、日本趣味が台頭し始めており、平林氏はそれを踏まえて中央の塔のデザインを仕上げた。平林氏が塔で表現したのは「名古屋城の櫓」。平林氏は設計に際して、明確に名古屋城を意識していたのだった。ちょっとずつ違うけれど、名古屋城と似ているところがある。それは偶然などではなく、平林氏が幼い時分に心に焼きつけた故郷、そして名古屋城に対する郷愁が込められているといえよう。

塔部分を隠して見れば、西洋の石造りの建築のようで重厚感が強くなるが、塔を含め全体に目をやれば、単にどっしりとしているだけではない、どことなく木造建築にある軽やかさも感じ取れる。この近代様式と和風の瓦屋根を組み合わせたスタイルは「日本趣味を基調とした近世式」として、高く評価された。また、名古屋市役所本庁舎に続けて進められた愛知県庁舎の建設にもこの様式が影響したとか。そう耳にすると、2つの建物がきょうだいのようにも感じられる。

 

照明器具や装飾タイル…尾張の技で彩られる庁舎内

平林氏は外観だけでなく、内装の細部にまで名古屋、そして尾張らしさを思わせる要素をちりばめた。例えば、来庁者を迎える玄関ホール中央にある大きな階段。その両脇に置かれている照明器具は、こまやかなレリーフが特徴的で、一見すると大理石などの石材、もしくは金属でできているように思える。だがその端を見ると、しずくが垂れたような造形が見て取れる。このしずくのようなものの正体は、垂れた釉薬。つまりこの照明器具は陶製なのだ。

この照明器具をはじめ、庁舎内の廊下などに用いられている多種多様な装飾タイルを手がけたのは、陶芸家であり釉薬研究の第一人者といわれる小森忍氏だ。小森氏の妙技が光る作品のひとつに、中央階段をのぼって突き当りに位置する、壁面の装飾がある。壁面を彩るのは「これは○色」とは称することが非常に難しい、複雑な色の混じり合いが特徴的な「窯変(ようへん)タイル」。窯で焼成される際、炎の性質や釉薬に含まれる物質により、予期できない変化が表れるため、1枚1枚まったく表情が異なる。小さなタイルが並ぶ様子は、ひとつの絵画のようだ。

小森氏は愛知県瀬戸市を含め、日本各地に研究所を構え、中国古陶磁器研究をベースに研究と作品制作に取り組んできた。陶磁器のまち、そしてタイルの特産地として知られる、瀬戸のまちで磨かれた小森氏の技術が、名古屋市役所本庁舎に独特の彩りを添えている。

庁舎内でとりわけ豪奢な造りの貴賓室は、もっとも“らしさ”がちりばめられている一角といえるだろう。薄く削り出された大理石のシェードが特徴的なシャンデリアをはじめ、内装や調度品の多くは、建設当時から残っているものばかり。欄間のレリーフや扉の飾り金具は、名古屋城本丸御殿に通ずる絢爛さを感じる。廊下側の壁には、大きな日本画が飾られている。廊下側に向かって左、北側にあるのは、織田信長を描いた作品。対して右、南側にあるのは豊臣秀吉を描いた作品だ。

来賓者がソファーに腰かければ、尾張の礎を築いたふたりの姿を目にできる構図といえる。なお、豊臣秀吉を描いた作品の作者は、名古屋出身の日本画家・服部有恒で、織田信長を描いたのはその師匠にあたる松岡映丘だ。ここにも、名古屋とのゆかりが感じられる。

貴賓副室を挟んで南側に位置する貴賓化粧室にも注目したい。ここにあしらわれているのも、先述の小森氏のタイルだ。緑青色を思わせるタイルは、1枚ごとに色調のゆらぎがあり、味わい深い空間を演出している。

貴賓室、つまり多くの来賓を迎え入れる部屋に、名古屋・尾張を想起させる要素が盛り込まれているのを目にし、ふと頭の中を「尾張名古屋は城でもつ」という言葉がよぎった。これは江戸時代、尾張藩の繁栄を表すものとして流行した一節だ。もしかしたら平林氏は、自身の郷愁とともに名古屋の繁栄を願い、設計を仕立てていったのかもしれない。

 

昭和から平成、令和にかけて、市民を見守る

庁舎が竣工して数年後に日中戦争が勃発し、やがて第二次世界大戦の戦禍に飲まれていく。名古屋市役所本庁舎は戦時中、空襲を逃れるため黄土色の壁面をコールタールで黒く塗りつぶしていたそうだ。戦後、塗装は拭き取られ元の黄土色に戻ったが、外側からは見えにくい一部には黒い塗装が残っている。まさに、戦禍の痕跡だ。

第二次世界大戦末期、名古屋のまちも大空襲に襲われ、名古屋城は焼け落ちてしまった。一方、名古屋市役所本庁舎は奇しくも戦災を逃れることができた。一部の改修や増設などがされているが、その様相は建設当時のままといえる。もしも空襲で半壊、全壊となっていたら、建設当時のまま再建されることはなかっただろう。

建築様式が高く評価されたことに加え、現存する昭和初期建築という歴史的価値の高さもあり、名古屋市役所本庁舎は1998年に登録有形文化財に指定され、2014年には隣接する愛知県庁舎とともに国の重要文化財に指定された。2000年代以降は映画やドラマのロケ地として、多くの作品に華を添えてきた。ある映画監督は建築様式に惚れ込み、セット全体のデザインの参考するほどだったそうだ。

ただ、単に保存されている建物と異なり、ここは現役の市役所。重要文化財に指定される以前は、壁や床の補修などは適宜行われていたそうだ。例えば床面に視線を向けると、ちょっとした違いを見つけられる。建設当時の、ある種ムラっけのあるタイルに対して、工業製品的なタイルが並んでいる。

窓を見れば、昭和に作られた表面が波打った状態のガラスに並んで、透過性の高いガラスがはめ込まれていることも。些細な違いではあるが、そこから感じられるのは昭和から平成にかけての、工業製品の精度の移り変わり。手仕事の風合いを色濃く残すのを良しとするか、整然とした画一的な仕上がりを良しとするか。捉え方はさまざまだが、それぞれの対比を味わうのも一興といえる。

名古屋市役所本庁舎では毎年11月3日、一般公開していない貴賓室や議場などを含め庁舎を見学できる公開イベントを催していた。2020年は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて中止となったが、中央階段など共用部分は普段より見学が可能だ。元となった名古屋城と併せて見学してみてはいかがだろうか。

最後にもう一度、中央の塔を紹介したい。にらみ鯱と鴟尾に加えて、屋根の下に造形物がある。市役所の職員さんの話によると、これは瓦でいうところの「鬼瓦」にあたり、魔除けのためにあしらわれたと伝えられているそうだ。今日も鯱と鬼がにらみをきかせ、市民の安寧を見守っているのだろう。

参考文献/国登録有形文化財名古屋市役所本庁舎現況調査報告書

WRITER PROFILE

伊藤 成美

グラフィック・書籍デザイナーや玩具の企画開発アシスタント、学習塾教材制作など、さまざまな職を経験したのち、縁あってウェブメディア運営会社のライター職に就く。医療従事者を中心に、主にインタビュー記事のライティング経験を積む。2020年よりフリーランスのライターに。ライフワークは「文脈」「つながり」をひもとくこと。心の中に湧き上がった「なぜ」を起点に、日々いろいろな物事に思いを巡らせ(妄想して)いる。