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宇宙物理学の佐治晴夫博士がついに面影座にやって来る!!宇宙一受けたい講義をもーやぁこ連載します。

TEXT : 小島 伸吾

2017.10.07 Sat

これは2014 年9月23日に開催された第一回番器講『宇宙の渚』佐治晴夫博士の講義録です。秋の黄昏時、小さな珈琲焙煎屋で、たった27人の参加者たちのために佐治博士はゆったりと語りはじめました。

 

1、ぼんやりからすべてがはじまる

私はトワイライトが好きなんですね。ぼんやりしたものが好きなんですね。たとえば、万葉時代などの歌にあるように、恋しい人の実物が見えるよりも、衣擦れの音とか夕闇にまみれてやって来るときのときめきのような、そういうぼんやりしたものが好きなんです。

一七歳のとき、アインシュタインにお会いしたとき、そこでアインシュタインが「日本の文化はぼんやりしているからね」といわれたことを覚えています。それこそ夢かうつつかということで、あまりはっきり覚えていませんけれど、アインシュタインのサインをもらいましたので、たぶん間違いなくお会いしたとおもいます(笑)。

それから、東京大学の大学院のときに、湯川秀樹先生が授業にこられたときのことですが、湯川先生の授業というのは、黒板に丸を描いたり線を描いたりするだけで、これはとても物理の授業なのか哲学の授業なのかわからない授業でした。けれど、やはりそこでも独特の京都という風土の中で、なにかぼんやりとした朧月夜というか、そういうものを感じておりました。

そのうち宇宙のはじまりについて考えるようになりましたが、いつでもついてくるのはこのぼんやりなんですね。とくに量子の世界なんて、まさにぼんやりしているんですね。電子がどこにあるかなんてわからないんですね。ここらあたりに確率的にあるということしかわからない。そこに電子がいたということを観測してしまうと他のぼんやりが消えて、はじめてそこに電子があるということがわかる。そのぼんやりさかげんとつきあってこの年八十になりました。ただ(今日いらしてる)馬場先生の方が年上なのであまり偉そうなこといえませんけど(笑)。

 

2、一枚の紙のなかに雲がみえますか?

まず、ダライラマ法王十四世と二〇一二年に高野山大学百四十五周年記念でお会いしたときのことです。私の弟子に茂木健一郎くんがいるんですが、私よりもずっと頭がよくってね(笑)。その茂木くんとロシアの科学者ナターリヤ・ポリュリャーフと三人でダライラマ法王と話をしてください、ということで招待されました。

そのときに、お昼ごはんを食べていたんです。ダライラマ法王さまは、とても大きな丼ぶりにごはんを山盛りにして食べていらして、たくさん召し上がるなぁとおもっていましたら、ダライラマ法王さまが「わたしは大食いだなとおもっているでしょう」といわれ、続けて「わたしは一日一食しか食べない。だからお昼はたくさん食べるのです。だけど、夕方になるとやはりお腹が減るんですよね。そのときは森永のチョイスを一枚食べるのです。」といわれました。

そんな雑談のあとに、私が法王さまに「一枚の紙の中に雲がみえますか?」と伺いました。それについてです。一枚の紙の中に雲がみえますか?というのは、私がとても尊敬しているベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンとお会いしたときに聞いた言葉なのですね。そうしましたらダライラマ一四世は、「これはとても詩的な表現ですね。きっとそうでしょう。」とおっしゃっていました。

つまり、一枚の紙の中に雲がありますか、というのは、詩人のような言い方ですけれど、私のような立場からいうと科学者の見方でもある。紙というのは植物からできているわけですが、その植物というのは、水がないと育ちませんし、その水はだれが供給したかというと、雨の水ですよね。雨の水は雲がないと降りませんので、雲がなくちゃいけない。しかも雲をつくったのは太陽の光ですから、この一枚の紙から雲がみえますか?となるわけです。これは非常に抽象的な意味だけれども、私はこの科学者の視点を宗教家が聞いたときに、どういうふうにお答えになるかに興味があったのですね。

つまり、そこで私がいいたかったことは、ある存在があるときにそれが独立して存在しているのではないということ、一言でいってしまえばそういうことなのです。たとえば、紙が何でできているか?紙は紙です。では答えになりません。紙は紙以外のものから出来ているんですね。

たとえば、水というのは水以外の酸素と水素からできている。そしたら人間って何からできているの?といわれたら人間は人間だよ、という以前に、人間は人間以外のものからできているとなります。たとえば、炭素や水素などいろいろな人間以外からできている。さらにそれを拡大解釈して、人間関係などネットワークも含めて考えると私というのは私自身で存在しているのではなくて、周りの人があって自分が存在できる、ということまでいえるのです。

3、あなたはあしたも同じあなたですか?

小学校で授業などしますとよくこういう質問をします。夕べ寝る前に明日も同じ自分であるか不安になった人いますか?と。みんな、え~って顔してますね。たとえば、山田くんという人がいたとしたら、明日目がさめたら山田じゃなくて河合になっているかもしれないという心配をする人は、まずいないですよね。でも、よく考えたら人間の細胞って約60兆個でできているわけです。その60兆個のうち6千億個は寝る前と目覚めたときとは変わっているわけですね。だから、ものとして自分を考えれば、寝る前といまの自分はまったく別のものなのです。別のものなのに私、佐治晴夫はなぜ佐治晴夫でいられるのか。いろんな答え方はありますでしょうけれども、私ひとりで私は佐治晴夫であると叫んでもこれは成立しないのです。

たとえば、私がここで一人でお話をしていても私は確定しないわけで、それを聞いてくださるみなさんがいらっしゃるからこそ私は確定するということで、周りとの相互作用というもので自分というものができているとなる。

つまり、ひとつの存在というのは、それひとつで存在できるのではなく、周りとの関わりにおいて存在するということです。これが今日の基本的な考え“縁起”といいますか、原因と結果が入り乱れて存在しているということです。こういったことを法王さまは、一枚に紙の中に雲はみえますか、いう質問のなかに感じてくださったわけです。

 

4、ないからこそすべてがある

そうすると、その先にあるものは何かというと、その実在する実体はあるかというと現代物理からいえば実体はありません。では、何があるかというと、“関係性”というものしかないという考え方なのですね。

ひとつの例で申し上げれば、赤い信号を見れば止まるわけですが、私がみる赤と、みなさんがみる赤が同じ赤であるというのは検証のしようがない。私がみた赤信号の赤がバラのような赤ですよ、といっても個人として認識する色なので絶対的なものではない。にもかかわらず、なぜみなさんも赤信号で止まり、私も止まるのか。赤という実在があるのかということなのですね。物理学的には非常にあやふやなものでありまして、こういう色をみたら止まりましょうというきまりだけがある、そういうきまりがある社会に育てられたときによって成立するのであって、赤色の実体の定義のしようがない。つまり、それぞれの頭の中にしかないわけです。

そういうことを重要視して、脳の中ですべてのものがつくれることを強調した芸能が落語なのです。以前、中京テレビの番組で立川志の輔師匠とお話したのですが、あのなかで志の輔師匠に落語って何なのか?と聞いたら、落語とはまったく何もないものである、ということをはからずもおっしゃいました。落語家というのは、こうして座って扇子一本をもってしゃべるわけですが、すべて聞いているみなさんが頭の中で想像しているのです。落語ほど自由なものはないのですね。実はその自由さに一番近い学問が数学なのです。

私はほんとうは音楽が好きで、芸術家になりたいという十代の憧れがありました。けれどもなかなか芸術系の大学に進めなくて、数学の道に進んだわけです。しかし、数学みたいな自由な学問はないです。マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるのは決まっていますが、マイナスとマイナスをかけたらマイナスになるという数を考えるだけで、宇宙が“無”から出たという答えがパッと出てくるわけです。こんな自由な学問は他にないんですね。ないものからあるものを作り出す学問として数学はとてもおもしろい。

資生堂の花椿ホールというところで宮沢りえさんにお会いしたときに私がいったのは、

「ところで宮沢さん、直線を描いていただけますか?」ということです。宮沢さんは「えっ?」といって、「こうでしょう。」と線を描かれた。そこで私は、「宮沢さん、直線というのは幅があっちゃいけないのですよ。どんなに細い鉛筆で描かれても、それには幅があるから直線じゃないのですよ。しかも直線は、永遠の彼方からやってきて永遠の彼方へ去っていくものであるから、仮に百歩ゆずって直線を描けたとしても、それは直線の一部しか描いていないことになります。」と申し上げた。

つまり直線は描けないということです。しかしながらですよ、このように三本の直線が交わると三角形ができるわけです。その内角をたしたものは、すべて一八〇度になる。これは非常におもしろいことですね。もちろん曲面においてもですね。直線は描けない、存在しないのです。頭の中にしか存在しないのに三本の存在しない直線が交わると、三角形が存在するわけです。どこにいってもこの法則が成り立つわけです。こういうところに、数学のひとつのおもしろさがあるわけです。

すべてわれわれが見ているものというのは見えないもの、描けないものによってつくられている。そこにおもしろさを感じるのですね。このたまたま番器さんが描いてくださいましたノヴァーリスが詠んだ詩を見てください。

 

  すべての見えるものは、見えないものにさわっている。

  きこえるものは、きこえないものにさわっている。

  感じられるものは、感じられないものにさわっている。

  おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。

 

ということ描かれているのですね。

われわれは頭の中でそういうことをやっているわけですね。これが生きていく脳の働きなんですね。だから見えるものしか信じないという言い方ほどいい加減なものはないわけで、じつは見えるものの影には、つねに見えないものの影があるということなのです。

( 続く )

 

やっとかめ文化祭2016関連プログラム

ナゴヤ面影座第三講 「量子の国のアリス ~目に見える世界は「おもかげ」か~」

WRITER PROFILE

小島 伸吾

版画、タブローを中心に、個展、グループ展多数開催。
2002年、イシス編集学校に入門。2003年よりイシス編集学校におけるコーチにあたる師範代を務める。2010年、校長である松岡正剛直伝プログラムである世界読書奥義伝「離」を修める。2003年より岐阜県主催の織部賞に関わる。2006年、エディットクラブ実験店として「ヴァンキコーヒーロースター」開業。2013年、2014年「番器講」企画。2014年、ペーパーオペラ《月と珈琲の物語》製作、公演。2015年、名古屋市の「やっとかめ文化祭」《尾張柳生新陰流と場の思想》企画。2016年、名古屋市の面影座旗揚げ。第一講《円かなる旅人〜円空の来し方。行き方〜》企画。2017年、知多半島春の国際音楽祭参加、ロールムービー《幾千の月》製作、公演。など編集とアートをつなげる活動は多岐にわたる。