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短歌ひとすじに生きた 長者町の女流歌人 

TEXT : 谷 亜由子

2018.06.12 Tue

よの常の女の群の渦巻を
のがれてひとり 高きを歩む  (歌集『木霊』より)

 

名古屋の女流歌人の草分けともいわれる青木穠子(じょうこ)(本名:志やう)。しかし、その生涯や人となりについては地元・名古屋の人にも、あまり詳しく知られてはいない。

名古屋・長者町に生まれた青木穠子は、女性の文化活動、社会進出への抵抗や偏見が強くはびこる明治の時代から、名古屋が全国的に見ても非常に活発な、歌人らの交流の場所になってゆくことへ大きく貢献した。さらに地元の短歌愛好家らが気軽に集まり活動できる場をと、旧下長者町三丁目、現在の名古屋市中区錦二丁目に、私財を投じて地下一階、地上三階のビル『短歌会館』を建て名古屋市に寄贈。晩年はその一室を自らの住まいとして過ごした。

その『短歌会館』で、穠子が誰にも看取られること無く、ひとり静かに86年の生涯を閉じたのは1971年(昭和46)1月20日の早朝のこと。冒頭の歌のとおり、短歌ひとすじに誇り高く生き抜き、名古屋の短歌会に大きな功績を残した稀代の人生であった。

青木穠子 鍬入れの様子

青木穠子の遺した『短歌会館』で、いまも活動を続ける『中部日本歌人会』。その顧問であり、愛知県史編さん室の発行する「愛知県史研究」の中で穠子についての研究論文を発表されている小塩卓哉先生にお話をうかがった。

岐阜県岐南町で高校時代までを過ごされた小塩先生は、大学進学のため上京し、卒業後に再び地元に戻って教員となられる。その傍ら、現在にいたるまで尾張・名古屋を拠点に短歌を作り、歌人会の顧問として様々な活動を続けられている。

20代の頃、日本の歌人界では広くその名を知られていた春日井健氏(江南市出身)の誘いを受け「中部日本歌人会」に入会。その『中部日本歌人会』を創立した人のひとりが青木穠子さんであったことから、その存在を知る。

小塩「私は高校生の頃から短歌を書いておりましたけれども、残念ながら穠子先生のことを知ったのは先生がお亡くなりになってからでしたので、実際にお会いすることはありませんでした。いま『中部日本歌人会』の中では、私は最年少の顧問ですが、先輩方の中には実際に穠子先生と交流されていた方もおみえになります。先生のことはそういう方々からお聞きするぐらいしかできないのですが、長者町という特別な歴史をもつ町でお生まれになった女性ならではの品格というのでしょうか、そういう教養、知識の深さのようなものを感じますね。」

明治から大正にかけての時代に、それまでの短歌の常識ともいえる和歌のスタイルを打ち破るような、幅広く自由な表現への挑戦の跡からも、歌人・青木穠子の短歌に対する深い熱意と愛情を読みとることができるという。

小塩「文学者という視点から先生の歌を見てもわかるのですが、当時“分かち書き”という手法を試みるなど、非常に自由に表現をされているんですね。」

そう語る小塩先生は、自身の手掛けた研究論文の中で、1913年(大正二年)、青木穠子29歳の時に出された第一歌集『木霊』からいくつかの歌を引き、その表現の多様さについてわかりやすく検証されている。

 

 うつむけば
はたと落ちたるさし櫛の
こぼれはさびし
 秋の初風

 

目をとぢて
静かにきけば様々の思ひありげに
 秋虫のなく

 

君が名と我が名と
ならべゑりし石ふと見えて消えつ
小萩さく野に

 

肩にかかる
ねくたれ髪の末きれて
 なやましさそふあきの暮れかな

 

“三行分かち書きを基本に、四行書きを試みたり、任意に一字を下げたりと表記上の工夫を凝らしている。分かち書きは元来書道の書法として発達したものであるが、近代になって活版印刷が普及することによって、西洋詩の影響も受けながら発達したものである。その嚆矢としては、土岐善麿(哀果)の作品が知られるが、その友人である石川啄木の作品が、一般にはよく知られている。啄木の『一握の砂』の出版は、1910年(明治43)であるから、この『木霊』はそのわずか3年後に発刊されていることとなり、歌壇における新傾向を逸早く取り入れたことに注目される“【愛知県史研究第18号「名古屋歌壇を創った歌人たち」より】

小塩先生

小塩「近代短歌は、だいたい明治30年代ぐらいから始まっています。短歌といえば縦一行に書くのが普通でした。しかし先生は、歌集として分かち書きのような表記上の工夫、例えば気分に応じて書き方を変える、自由に表現するということを非常に意欲的にやられていた。そのような表現を用いることで、音や言葉で感じる印象だけではない深い味わいが加わるんですが、このような試みを積極的に行ったという点でも、先駆者的な存在であったと言えますね。」

自由な短歌の表現からもわかる通り、常識に囚われることなく自分の意志に従って生きようとしていた青木穠子は、明治42年、秤商・守随(しゅずい)家の次男で陸軍中尉の錫氏と結婚。その直後には、当時、平塚らいてうらを中心に組織された女性だけの文芸雑誌『青鞜』に加わる。

しかし、『青鞜』が次第に文学よりも婦人解放を目指した新しい女性たちの思想結社へと傾倒していくことから、やがて少しずつ距離を置くようになる。その時の心情を青木穠子は次のように語っている。

「私は幼いころに両親をなくし病身だったので、家の中ばかりで暮らし、蔵の本を手当たりしだいに読みました。二十歳のころから大口鯛二先生について和歌を勉強していたんですが、当時、女には発表する場合も機会も与えられなかったんです。読売新聞だったでしょうか、青鞜の広告がのったのです。女の人の雑誌だし、一流の婦人のものが掲載されているので、私も申しこみました。『小鳥 小鳥 汝が声きけば わが心金線のごとく ふるえてやまず』など、私の和歌もいくつかのりました。文芸雑誌だった『青鞜』がしだいに婦人問題に傾いていったので、私は結婚していましたし、また和歌一すじに打ちこみたかったので『青鞜』から離れました。その後大正七年(1918)、宮中の歌会に私の歌が入選しました時、『新しい女の歌が』と世間で騒いだものです。青鞜社の女は、もの珍しい変わった女だと考えられた時代でした。」

【「名古屋 長者町誌 長者町織物協同組合二十五年の歩み」より】

小塩「そもそも裕福な家の生まれで育ちも良く『長者町のお嬢様、お姫様』とまで言われた青木先生が、なぜそのような活動に足を踏み入れていったのか、ということを考えていくと、実は、そういう生まれや性別といったものに縛られているからこそ、より自由になりたい、自分の好きな表現をしたいという強い思いがあったのではないかと思いますね。」

婦人解放活動の色を濃くしてゆく『青鞜』への、社会からの圧力が次第に度を増す中で、青木穠子は理解のある夫の協力のもと、個人の歌集『木霊』を出版し好評を博す。その中に掲載したのが冒頭の歌である。このことからも、『青鞜』への決別、そしてまた、我ひとり短歌一筋に生きて行こうという決意の姿勢がうかがえる。

書棚に並ぶ歌集『こだま』

昭和に入り、戦争が熾烈を極めつつあった1941年(昭和16)、温厚な人柄で地域でも人望の厚かったという夫の錫氏が病死。さらに空襲により家財の一切を失い、一時は岐阜の飛騨高山に疎開するが、青木穠子は戦後すぐに名古屋に戻って短歌の活動を再開する。歌誌『明鏡』を主宰し、後進の指導にあたるなど中部の短歌界のために力を注いだ。

そしてついに1964年(昭和39)、地元の歌人、短歌愛好家らのための活動拠点をと、自費を投じて「短歌会館」を建てることとなる。

小塩「当時は現在の丸の内、中日病院のあるあたりに中日新聞の本社があったんですが、そこの記者たちがすぐ南方にあたる長者町にあった青木先生のご自宅の座敷で、会議や寄り合いをさせていただいたりしていたそうです。『中部日本歌人会』というのは今でも組織上は中日新聞の文化事業部にありますので、当時から密接な関係があったのでしょうね。しかし、やはり個人のお宅ではいろいろ使い勝手も良くない。そこで短歌の活動をする人たちがもっと気軽に使える場所をという思いから、そのころにはまだ珍しかった公共の会議室として、都心にあのようなビルを建てられたんですね。」

歌集

直筆の随筆

青木穠子の短歌への深い情熱が形となった『短歌会館』。その一室には、現在も青木文庫として貴重な蔵書や日記、随筆、アルバムなど、ゆかりのものが数多く残され、市民にも公開されている。

小塩「しかしそれもごく一部で、先生が寄贈した蔵書は鶴舞図書館などに入っているとも言われています。もっとも、当時のことや先生のことを知っている職員さんもいまはもうほとんどいらっしゃらないかもしれませんね。」

青木穠子が愛した『短歌会館』の中庭には、歌碑と胸像がいまもひっそりと佇む。

胸像

歌碑

WRITER PROFILE

谷 亜由子

放送作家として20年以上にわたり番組制作の現場で活動後、NPO「大ナゴヤ大学」の立ち上げに携わり企画メンバーとして活動。「SOCIAL TOWER PAPER」、「ぶらり港まち新聞」の企画・取材などを担当。地域活性プロジェクトなどの仕事では各地を旅しています。何かの奥に隠れているものを覗くのが好き。蓋のある箱の中身や閉ざされた扉の奥にある空間、カーテンの向こう側の景色が気になります。人の心の奥にある思いや言葉を引き出す取材、インタビューが好きなのもそれと同じなのかもしれません。