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宇宙物理学の佐治晴夫博士がついに面影座にやって来る!!第二弾

TEXT : 小島 伸吾

2017.11.01 Wed

外はすっかりトワイライト。あちこちに街灯が灯りだしている。
佐治博士の話はいよいよ佳境に入り、高速になってきた。
会場は、異常な熱気を帯びだしている。

 

5、宇宙で一番早いものは何?

そこで、世俗的な解釈と、究極的な解釈と、ふたつあるようにおもうのです。世俗的な解釈というのは、つまり私たちには原子というのは見えませんよね、水がH2Oでできているとは見えないのですよ。見えないけれどもH2Oでできていると知ることができる。これが世俗的な解釈で、見えるものが見えないものに触っているという考えです。

 

たとえれば、水の中にインクを入れます。インクを入れると広がります。これを雛あられにたとえると、赤いあられと白いあられを器に入れてこれを混ぜるにはどうしたらいいか、これを振れば混ざりますよね。小さいものであればあるほどよく混ざります。これが赤と白のテニスボールだったらなかなか混ざらないですよね。つまり、この水に一滴のインクをいれると広がるということから何がわかるかというと、水もインクも小さな粒々からできているということがわかる。これが世俗的な解釈です。

 

水もインクの粒々も早く動いているということがわかる。次は、水というのはどういう粒々なのかというと、水素と酸素の粒々であるかとどうしてわかるかというと、水素を酸素の2倍の体積だけもってくるときれいにそれが水になるという実験結果からH2Oでできているということがわかる。これが科学のおもしろさです。だから、見えるというのは視力で見えるのではなく、頭のなかにある抽象的なものの関係性のなかで見える、と考えるということです。

 

相対性理論とは古典理論なんです。特殊相対性理論ができたのは一九〇五年、一般相対性理論ができたのはその十年後です。相対性理論では光の速さよりも早いものは存在しえないという制限のもとでできていて、その相対性理論によって宇宙はどのようにしてできたのかという説明もでき、またその理論からカーナビなどもできているのです。カーナビは相対性理論をつかった家庭用品です。カーナビは時速四万キロで走っている衛星と自動車を信号でやりとりしますが、時速四万キロで走っていると相対性理論によって時間が遅れますので、その誤差を補正して自動車の位置を特定します。この補正をしないと現在地が百メートル違うわけです。

 

この相対性理論は古典的理論なんです。ここで非常に困ったことがおこったですね。
たとえば、玉突きの球を衝突させますね。衝突させますと、右から左に完全弾性衝突がおこります。玉突きの中に小さな爆薬を入れておいてドンと爆発させたらどういうことがおこるでしょうか。または、球の間にスプリングを置いておいて両側から球を衝突させると同じ速度で離れるはずです。そうすると困ったことがおこるんですね。この片方の球の速度にまったく触れることなくもう片方の球の速度も測れるんです。

 

たとえば、いま太陽がなくなりましたといっても光の速度の8分20秒が経過しないと変化しないのですね。つまり、情報というのは光の速さでしかこないのです。ところが、さっきの玉突き理論があれば、情報が光の速度を超えられるんです。光の速度を超える情報をはこぶもの、これは通常タキオンといわれているんですけれども、これが超越的な解釈になって相対性理論の壁を破ってしまうのです。この破ってしまう現象を含めたうえで、認識とはなにかということをアインシュタインは懸命に考えたけれども、生涯これを解くことはできなかったのです。そのことがタゴールとの対話集のなかに書かれているのです。

 

ですから、見える世界と見えない世界をわれわれ考えるときには、経験的世俗的な解釈、親をみれば子がわかるなどという解釈ですね。この次に論理的解釈がきて、一番最後にくるのが、究極的解釈が、相対性理論の壁を突き破ってしまう超越的解釈です。そうすると、ここに意識とは何かという問題が出てきて、あやしげな科学もうまれてくる。

 

非常におもしろかったのは、北海道の帯広の中学校での授業で「一番早いものは何だろう?」とそこの生徒さんに質問したときに、ある子はロケットだ、ある子は光だよといろいろ議論があって、そしたらあるおとなしそうな女の子が、「わたしのおもいが一番早い」といったんです。これは意表をつかれたとおもいました。それで、どうして?とその子に聞いたら、その子はおばあちゃん子だったのですが、そのおばあちゃんは亡くなっているのだけれど、おばあちゃんのことを考えると、遠い天国に行ってるはずのおばあちゃんがすぐにここにきているような気がする。だからわたしのおもいが一番早い、といわれるんですね。感覚的に非常にするどい子供の感性なんですね。

 

そしたら、その隣にいた男の子が金子みすゞのお母さんと子どものことを詠った詩を思い出して、世の中で一番大きいのはぼくの心だよね、といいました。その詩は「お母さんは大人で大きいけれど、お母さんの心は小さい。だってお母さんは私のことで一杯だから。わたしは子供で体は小さいけれど私の心は大きい、だっていろんな事をおもうから…」これパラドクスですよね。だから、ぼくの心は宇宙よりも大きいとその子はいうのですね。

 

そういうことをいった人はかつていました。パスカルです。パスカルがパンセのなかで人間は考える小さな葦である。人間はかよわいものであるけれど偉大なものである。なぜならば、一瞬のうちに全宇宙におもいをみたすことができるからとかかれていますね。いまの教育では最後まで教えず、ただ「人間は考える葦である」とだけしか教えないところが問題ですね。そこに人間の尊厳を訴えたのがパスカルのすごいところです。

6、相反するものを包括する

まど・みちおさんがこういう詩をかかれています。「リンゴがひとつここにある。ほかになんにもない。このリンゴの大きさはこのリンゴひとつでいっぱいだ。ああここであることとないことがまぶしいようにぴったりだ」。つまり、あるというのは、ないということがあってはじめてあるわけです。また、あるということがあって、はじめてないということもあるわけです。これらはつねにペアなのです。

 

私が大学の頃、鎌倉の円覚寺で朝比奈宗源禅師について座禅をしていたことがあります。
この円覚寺の茶室のひとつを鈴木大拙が勉強部屋にしていたのです。そこで鈴木大拙さんがいわれていたことは、「ないということは、ないということではない何かを仮定していることだ。だから、ないということは独立していることではないからね。だから、ほんとうにないということをいうには、ほんとうにすべてのものがないと言い切るだけの勇気がないといえないのだよ。」とおっしゃった。それがつまり般若心経のなかの基本になっている考えです。

 

般若心経のなかの基本的な言葉は、色即是空といいますけれども、シューニャこれが空といいますね。ルーパ(色)は、ループとパが一緒になってルーパです。ル―プは生み出すという意味で、ルーは壊すという意味。ですから、ルーパというのは生まれては壊されるということで物質的な現象を意味します。

 

では、空というのはいったい何かというと、すべてを生み出すもとであるということです。すべては空に生み出され、すべては空に戻るという意味。つまり、あるということとないとうことをすべて包括された概念が空です。では、すべてを生み出すもとであり、すべてを吸収してしまう空という状態とは何かというと、それはわれわれの認識にのぼる前の状態です。認識にのぼるとはどういうことかというと、ここに「ゆらぎ」というものがあって、はじめて何かがあるとかないとか認識にあがるのです。 たとえば、ここに水が入っています。これはきれいな水で入っているかどうかわからない。だけど、こうしてゆれて変化することによってここにあるとわかる。つまり変化しないことは、われわれの認識の外にあるわけです。

 

じつは、これは動物の感覚に全部そなわっておりまして、たとえば南の国で怖い毒蛇に会ったときは動くなといわれるのです。沖縄でハブの研究をしている友達がいまして、彼が蛇に会ったときは動いちゃダメっていうんですね。つまり蛇は舌をペロペロっと出すと舌の先で赤外線を検知しているんです。われわれ生き物は、体温をもち赤外線を出している。だから私が動くと蛇は、赤外線の動きを感知して獲物だとおもってとびかかる。もし動くとしたら蛇と反対方向に動けというのですね。

 

つまり、ハブも人間と同じように変化するものに対して感じるようにできている。これを数学の言葉を使うと「微分」ですね。変化量でもって感じる。あえて空ということについて考えると、変化しない状態というのは認識の外にある状態、それがゆらいで実在の状態に浮かび上がってくると考えると、非常に辻褄が合うんですね。そういう視点からナーガルジュナの「中論」というのを考えると非常におもしろいですね。難解だとみなさんいうんですが、物理の図式で読むと非常におもしろいですね。あるとかないとかではなくて、あるということとないということを同時に両方含んでいる状態だということからスタートしている。

 

たとえば、あるものを見てこれは赤だといいます、一方でこれは白だといいますね。赤でもあって白でもあるとなるとわれわれの世俗的解釈からするとピンク色になりますが、そうではないんです。赤と白を同時に相反することを統括している性質というのを考えないと世の中はわかりませんよと「中論」はいっています。そうすると次に、善とは何か悪とは何かというのが出てきて、そこから親鸞聖人の「歎異抄」のいっている「善人なおもて往生を遂ぐ」というのがきれいに理解できるんですね。善悪というのは、その現象だけではどちらともいえません。まわりとの関わりをもって判断しなくてはならない。
これはダライラマ十四世の立場でもあるんですね。誰かが法律に反することをやった、だから罰するというのもありなんだけれども、それが何故そういうことに至ったかということによっても善悪を判断しなくてはいけない。レ・ミゼラブルはそのあたりを延々と描いた作品ですね。ちょっと空腹でパンを盗んでしまったということがあそこまで発展してしまうんですね。何が善で何が悪かという両方をインクルード、包括する状況で考えていかなくてはならないのです。

 

これは鈴鹿の小学校で経験したことです。ある男の子が神社の賽銭箱からお金をとって補導されるわけです。その子に父親はいない、母親の生活も乱れている状態で、いつも朝起きたら枕元に五百円玉が一個置いてあるような生活環境です。それで夏休みのある日、母親が帰ってくるかとおもったらなかなか帰ってこない。夏休みなので給食がなくてあまりに空腹で、ついに賽銭泥棒にいたった。

 

いくら盗ったでしょう。五百円しか盗っていないんです。賽銭箱には2千数百円入ってました。私はその子に聞いたのです。どうして五百円しか盗らなかったの?その子は盗ることは悪いことだと充分知っていたのです。知っていて盗ったのです。そのときの学校や警察、教育委員会の対応がはたして適切であったかとても疑問がのこります。お金を盗ること自体は犯罪なんですけれども、法律上の窃盗ということだけで済ましてしまうことに関して、すっきりしないものがあります。

 

宇宙の始まりの物語「リグ・ヴェーダ」に書いてありますね。はじめは「無」もなかった。さらに「無」の対称の「有」もなかった。それを覆う境界面もなかった。すべてなかった。そういわざるえなかったということですね。そこで、ほんとうのはじまりというのを考えていこうというのがインドの「リグ・ヴェーダ」の考え方です。そして旧約聖書のコヒレト、私が一番好きなところには「すべては空の空、空の空」とあります。風は吹くように吹くんだというところからはいっています。さらに、老子の「道徳経」の茶碗とは何かというところでは、「ない」ところがあるからこそ茶碗なんだとあります。何もないところがなければごはんが入りませんから。

 

それを音楽でやっちゃったのが、ジョン・ケージの四分三十三秒です。ピアノの蓋を開けてさあ弾くか、とおもったらなかなか弾かない。聴衆は今か今かと息をひそめて待っている。外の音が少しづつ聞こえてくる。ドアの軋みの音や誰かの咳払いの音が聞こえてくる。それが音楽だというのがジョン・ケージの四分三十三秒なんですね。音楽というものは、いったい何なのか。つまり聞こえる音楽の他にも音楽はあるのだということなんですね。

 

世界的なバリトンの名手のフィッシャー・ディスカウさんにウィーンでお会いしたんですが、そのときにディスカウさんはシューベルトの歌曲「冬の旅」を歌われたんですけど、そのアンコールのときに「君こそわが憩い」を歌われた。あの曲は途中で全部音が止まるんですよ。ピアノも歌も全部止まり完全な沈黙になるんですが、ディスカウさんはこの沈黙にこそシューベルトの音楽があるといわれました。

 

8、光の正体が意味するもの

物事の実体があるのか、ないのかと考えたときに、あるということとないということを、統括できる理論の典型が量子論です。今度出版予定の私の著書「量子は、不確定性原理のゆりかごで、宇宙の夢をみる」にも量子論がかかれていますが、そのなかで出てくる光とはいったい何かという問題です。これは数百年来議論されている問題です。

 

十月の八日に皆既月蝕がおこります。月蝕というのは地球の影の中に月が見えるのですが、太陽の光を地球が遮ってしまうわけですから、ほんとうは月が見えないはずなのに赤い不気味な月が見えます。それは太陽からの光が地球を回りこんで月を照らしているからなんですね。あたかも、これは防波堤の中を波が回り込むような現象がおきているんですね。これを波の回折といいます。つまり、光は波なのです。

 

もっと卑近な例をあげますと、ある日、私の姪が風邪をひいていて、寒くてストッキングを2枚履いていたのですが、ストッキングを2枚履くと皺ができるのです。これは光が干渉するからです。そこで私がストッキング2枚履いているといったら、姪におじさんやらしい!といって1年半嫌われました(笑)。ストッキングの網の目が2枚重なってその間を光がはいったときにちょうどさきほどの回折と同じような現象がおこるわけです。

 

眼を細めて蛍光灯やライトを見てみてください。なんか放射状に広がって見えませんか。これは睫毛のあいだを光がすり抜けてきますから、回折と同じ現象がおきているわけです。つまりどうみても光は波なんですよ。ところがですね。もし光が波だったら星が見えないという結論もあるんですよ。

 

水の中に石をじゃぼんと入れますよね、すると波紋がずっとひろがりますね。それはどういうことでしょうか。距離が2倍になりますと面積は4倍になりますから光は弱くなりますよね。さらに遠くになり距離が3倍になりますと、面積は2の3乗で8倍になります。つまり光の強さは8分の1になります。われわれの眼が感知できるエネルギーの限界はどのくらいかということは実験でわかっています。これによるとだいだい太陽くらいの光をもっているとしても星が肉眼で見える限界は0・7光年。これ以上遠くの星は肉眼で見えないという結論が出ている。なのに七夕の星は20光年くらい、乙女座の星230光年くらい遠くなのにみんな見えます。どうして見えるのか。これを解決するには光は粒々であると考えなくてはならない。

 

そうすると、さきほどの光の面積の広がりは、光の粒の密度が広くなったと考えればいいということになるわけです。この光は粒であって波であるという問題が議論されてきたわけです。これに解決を与えたのが量子論なのです。この結論は、光はあくまでも光そのものであって、見る側の立場によって粒のように見えるし波のようにも見えるだけの話である。われわれがいう波というのは、海の波を見て波と考えるのであり、われわれが粒というのは、砂粒を見て粒だと考えているだけの話であって、光は光であると考えていない。

 

冒頭でお話した直線のことを考えてください。頭の中にある論理というのがあって、それが数学で表現される光というふしぎな実態があって、こちらから見ると粒のように見えるけれど、こちらから見ると波のように見えるということを見事に調和させたのが、量子論の世界です。その量子論からいうと、何もないところから宇宙が生まれる、ということをいとも簡単に結論を出せるわけです。でもそれを日常の言葉に直していうと難しいところがあるのですね。ということで、このあたりで前半を終わりにしたいとおもいます。

(前半終了)

 

やっとかめ文化祭2017関連プログラム

ナゴヤ面影座第三講 「量子の国のアリス ~目に見える世界は「おもかげ」か~」

WRITER PROFILE

小島 伸吾

版画、タブローを中心に、個展、グループ展多数開催。
2002年、イシス編集学校に入門。2003年よりイシス編集学校におけるコーチにあたる師範代を務める。2010年、校長である松岡正剛直伝プログラムである世界読書奥義伝「離」を修める。2003年より岐阜県主催の織部賞に関わる。2006年、エディットクラブ実験店として「ヴァンキコーヒーロースター」開業。2013年、2014年「番器講」企画。2014年、ペーパーオペラ《月と珈琲の物語》製作、公演。2015年、名古屋市の「やっとかめ文化祭」《尾張柳生新陰流と場の思想》企画。2016年、名古屋市の面影座旗揚げ。第一講《円かなる旅人〜円空の来し方。行き方〜》企画。2017年、知多半島春の国際音楽祭参加、ロールムービー《幾千の月》製作、公演。など編集とアートをつなげる活動は多岐にわたる。