TEXT : 榊原 あかね
名古屋を代表する戦国武将の一人である豊臣秀吉。貧しい農民の子から太閤へと天下にのぼりつめた軌跡を辿り、生誕地といわれる中村に残るゆかりの地を訪ねる。秀吉とはどのような人物だったのか。そして後世にいかに語り継がれてきたのだろう。
中村で誕生した秀吉
豊臣秀吉は、天文6年(1537年)、尾張国愛智郡中村に木下弥右衛門の子として誕生した。幼名は「小竹」または「日吉丸」と呼ばれたと太閤素生記に記載されている。
生誕地のいわれはいくつかあり、現在の中村公園付近とされている。中村公園の豊国神社東側の竹藪、妙行寺の西方(尾張名所図会)、常泉寺(寛文村々覚書)の説があり、また、秀吉の父・弥右衛門の屋敷があった中中村(なかなかむら)「弥助屋敷」であるとの記述も(太閤素生記)。地元の伝承や史料でも不明確ではあるが、出生は中村が有力視される。
秀吉が生まれた戦国期の中村区は、稲葉地、岩塚、米野などに小豪族の城が築かれたのち、織田氏の支配下に入った。主君が激しく入れ替わる戦乱の時代に、武士に憧れた一農民として秀吉も全国支配への野心を抱いたのではないだろうか。その夢を、秀吉はいかにしてかなえたのか。複数の文献や資料をもとに創作性のある逸話も交えながら、生涯を辿ってみよう。

中村公園にある群像彫刻「日吉丸となかまたち」。わんぱく盛りの秀吉をモデルに、昭和58年(1983年)に作られた。
信長の元で出世街道に乗る
秀吉は父の死後、幼少時に尾張国萱津(甚目寺町)の寺に預けられたが、間もなく帰郷した。その後は各地を転々としながら奉公に励み、針を売りつつ遠州浜松へ赴いた。15~16歳の頃に今川家に仕え「木下藤吉郎」と名乗る。のちに織田信長に仕え、有力武士として桶狭間の戦いなどに加わり信頼を得ていく。
永禄4年(1561年)、おねと婚儀を行い、この頃から「木下藤吉郎秀吉」と称した。永禄9年(1566年)に一夜にして築いたとの逸話のある墨俣の一夜城で軍功を挙げ、信長の稲葉山城攻略に寄与した。元亀元年(1570年)、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍に対する勝利に貢献。小谷城攻略の功績を認められ、信長より羽柴性を与えられて長浜城主に任ぜられた。天正5年(1577年)には、中国攻めの大将として、姫路城を拠点に活躍したのである。
秀吉の戦法、兵糧攻めと大返し
秀吉が得意とした代表的な戦法が、兵糧攻めと大返しだ。天正6~8年(1578~1580年)三木城で包囲網を築き兵糧の搬入経路を断つ。天正9年(1581年)の鳥取城、天正10年(1582年)の備中高松城でも兵糧攻めをし、高松城では水攻めも加えて、徹底的に追い詰めた。
大軍を短期間で移動させる大返しも知られている。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が討たれたことを知ると、速やかに毛利氏と和睦を結び、約10日間で引き返し、山崎の戦いに臨み明智光秀を討ったのが中国大返し。信長の後継者を決める清須会議で思惑通りに事を進めたのち、天正11年(1583年)に賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破った際にも大返しの逸話が残っている。
この賤ケ岳の戦いが秀吉を信長の後継者に決定づけた。大阪城を築城、四国・北陸を制定し、関白となり豊臣政権を発足。天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏を降伏させ、ついに全国平定を果たす。

豊国参道にある武将の案内板「豊臣秀吉」
秀吉はなぜ天下統一を成し遂げることができたのか
低い身分の出身でありながら、秀吉はどうして天下をとれたのだろう。
「人たらし」といわれる秀吉の明るく親しみやすい人柄は知られているが、行商時代に培った商人気質、軍事力に加えて相手を取り込む交渉術や情報収集力などの政治的手腕が上げられる。身分ゆえ家臣がおらず後ろ盾のないハンデを、加藤清正や福島正則ら子飼いの武将を重用して克服した。信長に仕えたのも、将来性を見込んだ先見の明があったのでは。弟・秀長の軍事、内政支援もあり、このような周囲の人々が秀吉を天下の座へと導いたのである。兵糧攻めにみられる米の流通掌握の重要性は、近年改めて実感するところかもしれない。状況を見極めた匠な調略によって成し遂げたのだろう。そうした秀吉のしたたかさの土台には、貧しかったからこその強い出世欲があったのではないだろうか。
豊臣政権発足から神となるまで
政策では、太閤検地を行い石高を元に年貢を徴収した。さらに刀狩りと身分統制令によって、武士と農民の身分の差をはっきりさせた。文化面では、豪壮絢爛な桃山文化を普及させ、千利休を茶頭に茶道を政治に取り入れて庶民にも茶の湯を広めた。しかし、独裁的な政治や残忍な処罰などで政権内での対立を招く。天正20年(1592年)から死去まで続いた2度にわたる朝鮮出兵は政権崩壊の一因となり、信頼を失っていった。慶長3年(1598年)、伏見城で愛息子秀頼の将来を案じつつ62歳で生涯を終える。
秀吉の死後、豊臣政権は長く続かなかった。慶長5年(1600年)関ケ原の合戦を経て、慶長20年(1615年)大阪の陣により豊臣家は滅亡する。その後、約260年に渡る徳川政権が築かれていった。自らが神として祀られることを希望していた秀吉は死後、山城国東山山麓の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、豊臣大明神の神号を与えられる。ところが、豊臣家滅亡後に神社も廃絶してしまった。徳川の時代で表立って祀ることがかなわなかったのである。
庶民の心をつかんだ秀吉の伝説『太閤記』
しかしながら秀吉は、江戸時代の庶民に英雄視され人気を博すようになる。その火付け役となったのが、太閤記をはじめとする数々の伝記物語である。代表的なものでは尾瀬甫庵の『太閤記』。秀吉の身近な人に仕えた人物が物語風に書いており、のちに多くの元になった。武内確斎作・岡田玉山画による『絵本太閤記』は子どもでも親しまれる内容で、伝説や創作を交えてドラマティックに描かれた。『太閤素生記』では、秀吉の人柄を伝える記述が見られる。これらの作品は忠実とは言えない部分もあるが、庶民の心をつかむ魅力的な逸話が多くあり、現代における秀吉のイメージに影響を与えた。
では、なぜ秀吉は庶民の支持を得たのだろうか。徳川の時代、政権を握っていた幕府の制限が厳しく、民衆の中には反発もあったと考えられる。その中で、低い身分からの大出世という夢のあるストーリーが庶民に憧れを抱かせ、広く親しまれたのだろう。
中村に受け継がれる秀吉の夢
波乱の生涯を終えてからも、数々の逸話で民衆に親しまれた秀吉。生誕地といわれる中村においては、明治頃にゆかりの地の保存に向けた動きが活発になる。
明治維新後に秀吉の功績が改めて評価され、中村でも地元有志による再興への声が高まる。中心となったのは、鈴木弥平、木村喜代二、木村伊兵衛、山村茂寿の4氏。名字の頭文字をとって、「やきいも」という愛称で呼ばれた。明治16年(1883年)、当時の県令国定兼平氏によって秀吉の生誕地とされる場所に「豊公誕生之地」の標識が建てられる。さらに明治18年(1885年)には、国定兼平と地元有志による『豊公遺跡保存会』が設立された。
豊公誕之生地の石碑。当初は板碑であったが、明治44年(1911)に石碑に替えられた。
明治18年(1885年)、豊臣秀吉公を祭神に豊国神社が創建。加藤清正公没300年祭を期に、豊国神社の摂社に加藤清正が祀られ、出世・開運・茶道・建設の神として崇められている。

豊臣秀吉公を祀る豊国神社。ひょうたん型の絵馬が並ぶ。
明治34年(1910年)に、この豊国神社を中心に県有公園として中村公園が誕生。秀吉の馬印である千成瓢箪にちなんだひょうたん池や藤棚が整備され、明治43年(1910年)に園内の拡張が行われた。

中村公園内にあるひょうたん池。他に関白池、太閤池、合わせて3つの池がある。
大正6年(1917年)、公園の大改良と造園が施され、大正12年(1923年)に県から名古屋市へ移管された。この頃から周辺の都市開発が盛んになり、名古屋駅から中村へ多くの人が訪れるようになる。中村公園はその後も大正、昭和にかけて改修と整備が重ねられた。戦火は逃れたものの、戦後の接収や伊勢湾台風などの試練に見舞われながら復旧が行われた。そして平成28年に(2016年)「秀吉清正公園」の愛称が決定。現在では市民の憩いの場として親しまれ、四季折々の祭りやイベントで賑わいを見せている。なお、毎年5月の第二土・日曜日に太閤まつりが開催される。
清正没後300年を記念して明治43年に建てられた中村公園記念館。木造瓦葺の書院造で、秀吉の馬印であるひょうたんの意匠が施されている。
中村公園の東側にある乗泉寺も生誕地のひとつとされ、ゆかりの地としてはずせない。秀吉が小田原攻めの帰路でこの地に立ち寄り、加藤清正に寺の建立を命じ、秀吉没後の慶長3年(1598年)に豊国大明神の廟堂として創建されたと伝えられる。本堂には豊太閤を模した木造の肖像彫刻「束帯唐冠像」が御神体として祀られているが、これは清正が豊臣秀頼から預かり、大阪城にあったものを鎮座したといわれている。
乗泉寺の境内に見られるのが、豊太閤産湯の井戸。秀吉誕生の際に産湯として使ったと伝えられ、常に清泉が湧き出ていたことが寺の名の由来とされる。そばには「秀吉御手植えの柊」があり、大切に保護されている。

豊太閤産湯の井戸は、パワースポットとして知られている。昭和40年代に水が枯れたが復活した。
周辺には他に加藤清正誕生の地に再建された妙行寺があり、また、名古屋市秀吉清正記念館では秀吉と清正に関する資料を見ることができる。
とりわけ訪れた者の目を引くのが、中村公園への参道の入口にある大鳥居だ。大正10年に愛知郡中村が名古屋市に併合されたことを記念して昭和4年に建てられた。全長が約24.5メートル、柱の直径が2.5メートルもある巨大な鉄筋コンクリート製の鳥居で、完成当時は日本最大だった。

名古屋市営地下鉄の中村公園駅から地上に出ると目に入る大鳥居。
平成31年(2019年)~令和4年(2022年)にかけて、中村に新たなモニュメントが誕生した。名古屋駅から大鳥居までの約3キロメートルを「太閤秀吉功路 人生大出世夢街道」と名付け、秀吉の出生から天下統一への道のりを追体験できるレリーフを30基設置している。

レリーフのモニュメント。「絵本太閤記」の挿絵をモチーフにしている。
時代を越えて語り継がれる秀吉の大出世物語も、ここ中村から始まった。決して順風満帆ではなかったが、しぶとく天下へとのぼりつめたその生涯は民衆を魅了し、秀吉を慕う人々によって意思が受け継がれている。一時は日の目を浴びなかった時期がありながらも、亡き今も再興を繰り返していることに秀吉の執念すら感じるのだ。そんな出世話にあやかって、ゆかりの地、中村で功績を辿ってみてはいかがだろうか。




