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「写真を撮る」とはどういうことなのか−名古屋駅西をまなざした親子の記録−

TEXT : 伊藤 成美

2025.08.30 Sat

2022年9月某日、名古屋駅西側エリア(以下、駅西)にある「ホリエビル」に足を運んだ。友人が写真展に行くというので、ついて行ったのだ。前情報は「昔の駅西の写真を展示している」くらいだったと思う。

写真展「NENアーカイブス展」で目にした膨大なモノクロ写真に、衝撃を受けた。強い光と濃い影が生むコントラスト、あるいは宵闇にぼんやりと浮かび上がるまちの陰影。路地を駆け回る子ども、雨の日にぬかるんだ道を往来する大人、崩れたバラック…切り取られた風景の一つ一つから、匂いや質感が伝わってきた。生々しいほどの表現に、ただただ圧倒されてしまったことを、今でもよく覚えている。

 

「いったい誰が撮った写真なんだろう?」

写真展の企画者は、「ホリエビル」を運営する「屋上とそら」代表取締役の堀江浩彰さんと、名古屋市立大学大学院人間文化研究科准教授で駅西エリアの研究に取り組む林浩一郎さん。ふたりによると、写真の多くは駅西に暮らしていた親子が撮りためてきたものだという。撮影時期は、戦後から東海道新幹線が開通した1960年代。当時、駅西は「駅裏」と呼ばれていたそうだ。カメラもフィルムも貴重な時代であり、現像にかかる費用も、ばかにならなかっただろう。少なくとも、スマホがあれば気軽に写真が撮れる現代とはわけが違う。

「写真を撮るって、どういうことなのだろう?」

今ほど「撮る」ことが身近でなかった時代に、ファインダーを覗き、シャッターを切る原動力は何だったのだろうか。写真やカメラとともに生活があるとは、どういうことだったのだろうか。現代と違いがあるのか、ないのか。それを知りたくて、写真の提供者である杉山雄彦さんにインタビューしたいと考えた。

 


 

株式会社スギヤマ商事代表取締役で、かつては牧野小学校のPTA会長などを務めた杉山さん。最近では浄土宗西山深草派の得度を受けたという。かくしゃくとした人で、写真について話を聞きたいと相談した際、杉山さんは「何でまた写真のことを?」と不思議そうにしながらも、「まぁとりあえずお会いしましょう」とお返事をいただけた。

2025年5月。駅西にある星乃珈琲店で杉山さんへのインタビューが実現した。星乃珈琲店のすぐそばにある牧野小学校は、杉山さんの母校だ。

 

物心のつく前からカメラが身近にあった

杉山さん:あなたから今回の話を聞いたときにね、“前提”になるものをと思って持ってきたんですよ。

――かわいい赤ちゃんの写真!もしかして…?

杉山さん:僕です。「生後六ヶ月」ってあるでしょう。僕は2月生まれだから、昭和19(1944)年8月ごろかな。あなたは、僕と写真の関わりについて知りたいってことだったけれど、こーんな小さな頃から始まっていたんです。

――撮影されたのはお父さまで?

杉山さん:そう。父はカメラをいくつも持っていましたね。覚えているのだと、ヤシカ(1949年創業の国産カメラメーカー)とか。正方形の写真はヤシカの、上から(ファインダーを)覗いて撮るカメラで撮ったものかな。父のカメラはどれも売っちゃって。今思えばもったいないことをした。手放してからだいぶ経つから、もうしょうがないんだけれど。
家族で木之本地蔵院を旅行したときの写真や、僕の弟や妹の写真。あとは写真館で撮ってもらった家族写真も残っています。写真を頼りに、昔訪れた場所を旅するなんてこともやってきました。

――お父さまはかなり早い時期からカメラを持たれていたんですね。

杉山さん:そういうことなんですよ。父は戦争中、戦地にもカメラを持って行っていたみたい。父が戦争に行ったのは昭和15(1940)年頃なので、そのときからカメラを持っていたことになりますね。軍隊の兵舎での様子の写真も残っていて。不思議なものです。

――お父さまどんな方だったんですか?

杉山さん:父は慶應義塾大学を出て、鉄道省の職員をしていました。当時の住まいは今の住友生命ビル(名古屋市中村区名駅南2)の東側。家は戦争で燃えてしまって。それで一家でこちらに移ってきたんです。

 

いつでも、どこでも、カメラとともに

杉山さん:赤ん坊だった僕と一緒に、ダンボール箱が写っているでしょう。この写真を撮ったのはここ。もともとここ(現在星乃珈琲店がある場所)に、祖母が営む商売の事業所があったんです。進駐軍からの支援物資の運搬用ダンボールをかき集めて商品として販売していました。当時はダンボールが珍しくて。荷造りになんかに再利用できるんで、買い手も多かった。父は1949(昭和24)年に鉄道員を辞めて、事業を手伝うことになりました。結構儲かったみたいですよ。父の代に工場を建てたり倉庫を構えたりして。父は町内会の役員もしていたので、商店街のお世話なんかもしていましたね。

――お話を聞く限り、とても忙しそうな毎日を想像しますが、そんな中でもお父さまは写真を撮り続けていたんですね。

杉山さん:家族の写真だけでなく愛車とか近所の風景とか、いろいろ撮っていましたね。僕の傍らにも、カメラはずっとあって。この写真、昭和33(1958)年って書いてあるでしょう。これは僕が中学生の頃。修学旅行のときの写真ですね。

――当時、中学生でカメラを持っているのは珍しかったのでは?

杉山さん:同級生では僕だけ、いたとしてもあとひとりくらいでした。父が持たせてくれたわけです。旅行から帰ってきたら、焼き増ししてみんなに渡していましたね。僕の傍らには、ずっとカメラがありました。思えば、戦後から10年ちょっとしか経っていないのに、子どもに写真機を持たせてくれるっていうのは、それだけ豊かだったってことでしょう。中高は東海に通っていて、近所にも同級生がおりました。父と僕と弟と一緒に撮った写真でも、僕はカメラを持っています。いつも絶対にあったんです、カメラは。不思議なことに、きょうだいで写真をやっているのは僕だけなんですけれどね。

 

写真の中に生きる時間、こびりつく記憶

――杉山さんにとってカメラの先輩でもあるお父さまが、たくさんの写真を撮られていた理由って何だと思いますか?

杉山さん:たぶん父は「写真に写す」ことが単純に好きだったと思います。そういう行為が好きだったというか。「残しておきたい」とか、そういうことは考えていなかったんじゃないかな、僕から言わせると。写真を撮ることがものすごく好きで、それ以外何もなかった。

――何かを狙っているわけではない、というか。

杉山さん:そう。父は「ちょっとここの写真がほしいから」と、僕にご近所さんの家の屋根に登って写真を撮ってこいって言うわけですよ。僕も「よしわかった」って、家主さんにお願いして登らせてもらって。大人だと無理でも、子どもならできるってこともありますから。それにしても、屋根を登らせてもらうっていうのも、今だったら絶対ありえないこと。でもそのおかげで、写真で残すことができたわけです。林先生たちに預けた写真はの中には、父や僕が撮った写真だけでなく、もらった写真もある。写真をもらえるというのも、ずっと写真を撮ってきたこととかが関係しているのかなって思います。
そうそう、前に井上鳥獣店(駅西にかつてあった、今で言うペットショップ)を営んでいた井上さんが、うちで持っていた写真を見て「父親の陸王(オートバイ)が置いてある!」とどえらぁ喜ばれて。うちやご近所さんが持っていた車の姿も、写真の中に生きとったんです。

――写真があることで記憶が呼び起こされることってありますよね。

杉山さん:…ただね、良いもんばっかりじゃない。雨が降ると道がぬかるんで、駅につくまでに靴は泥だらけになって。雑巾で泥を拭わないと、駅の向こう側には行けなかった。そういうことを思い出しちゃう。
中学2年生の時だったかな、友達の家に遊びに行ったら、友達のお母さんから「あんたどっから来た?」「駅裏の子は来ていかん」って言われて。僕は友達に来いって言われたから行ったのに。夜中に自転車で帰ってきたよ。駅裏の内側では、差別はなかった。どんなルーツでも。でも外では、ね。

――写真が切り取ったのは「良い思い出」ばかりではない…。

杉山さん:触れたくない、触れられたくないって部分もあるわけだよね。いわば黒歴史。父親から事業を継いだとき、銀行で「あいつは駅裏だから」とも言われたこともある。ものすごく苦しかったね。

 

神様は「見てござった」

――写真を手放そうとは、考えなかったのですか?

杉山さん:写真は、僕が死んだらごみになる、終わりになるって思っていた。それくらいかな、うん。娘たちに押し付けることになっちゃうけれど。
うちの写真を「資料として使いたい」ってはじめに言ってきたのは土屋くん(小説家・平子純さん)。土屋くんも小説で区の、駅西の歴史を残したいといろいろ書いてきたから。それで、土屋くんのところに預けておいた。林先生は、土屋くんのところで写真を見つけたらしいね。

――林先生から写真提供のお願いがあったとき、どう感じましたか?

杉山さん:正直言えば、最初は嫌だなぁって思った(笑)。けれど、よく考えてみたら、やっぱりこれは歴史として残すべきだと思ったんです。写真が全てというわけじゃないけれど、やっぱり記憶をたどって次どうするかということを考えていくのは、必要なことだから。記録としては大事なもんだと、僕は思う。

――2023年の「NENアーカイブス2展」のトークイベントで「神様は見てくれていると感じた」とおっしゃっていましたよね。

杉山さん:触れたくないと伏せとっても、世の中に必要であったらなにかのチャンネルで出てくるってこういうことなんだわ。神様は「見てござる」。良いことも悪いこともどちらも、見てござって、いつか出てくる。林先生の研究で必要ならばということで、写真が出てきたまで。
聞けば、東京や大阪と違って駅西は資料が残っていなかったそうです。ないと思っていたものがあった。これで研究が進められるってことだったのでどうぞと提供しました。こういう出会いがなかったら、そのまま終わっていたかもね。

――「黒歴史」の写真に対する印象は変わりましたか?

杉山さん:何くそと思うこともあったけれど、ひたすら撮ってきたことは、神様から見たら必要なことだったんだなって、そういう捉え方ができるようになったかな。雨上がりのぬかるんだ通りの写真を見て、懐かしいと思う人がいる。今なら、あなたのように興味深く見る人だっている。後から振り返ると、僕が撮ったというよりも、導かれていたのかもしれない。当時は苦々しくも感じていた。撮った写真も、ナシになって消えちゃったで良いと思っていた。でも今なら、撮ってきたことは、良いことだったと思えるかな。

――もしも写真を処分してしまっていたら、「良いこと」だったとは思えなかったかもしれませんね。

杉山さん:そうかもしれん。僕がやってきたことは、無駄ではなかったと思えた。それとね、僕はみんなとちょっと違う考えを持っていた。それは駅裏、今の駅西はこの土地の人のものであると同時に、名古屋市の土地であると思っていること。区画整備も、大いに協力しないかんと思っていた。名古屋市が良くなるようなことだったら、協力すべきなんじゃないかなって考えでいます。林先生に、写真をどうするんだって聞いたら「本にして名古屋の歴史として残す。図書館に持っていく」と返答があって、それなら納得、やってやってってお渡ししました。

 

今を預かり、未来に託す

――杉山さんは今も、写真を撮られているんですか?

杉山さん:撮ってますよ。レンズの性能が追いつかんくなってから、フィルムカメラは全部処分して、その後はデジカメとこれ(スマホ)。でもデジカメになってからはあんまり持たんようになったかな。みんな持つようになったから。
以前写真館の方に言われた「いい写真ってものは“聞こえてくる”ものがあるんです」って言葉は強く残っています。要は伝えたいことがきちんと伝わってくる写真、ってことなんですけれど、それを言われてから、シャッターを切るときにためらうことが増えた。聞こえてくるだろうかを考えて、残しておく必要があると思ったから。事実というよりも、なんでもない音が、声が、聞こえてくるような写真を撮りたい。そんな心境になれたのも、この年齢になったからかな。
…実はね、昔に自分で写真を本にまとめようかなって考えたこともあったんです。おそらく僕が自分で本を作っても「黒歴史で銭稼ぎして」と後ろ指をさされたと思う。最後には、ちり紙交換に回収されちゃただろうな。

――まちの“外側”の人に託すことで、歴史として残しやすくなった側面はあるでしょうね。

杉山さん:長い目で見たとき、名古屋の歴史として残せるようにしてくれるんなら、それをするのは僕じゃなくても良いってわけ。残していた写真は林先生と堀江くんに管理をお願いしています。僕より若いし、あと数十年は続くかなと思って。
でもね、全ては諸行無常。100年、1000年後には名古屋というまちがあったことだって忘れ去られているかもわからんよ。どうしたって変わっていく、今この時期だけを預かっているだけ。そういう捉え方になると楽なもんだよ。

 


 

「写真を撮ることがものすごく好きで、それ以外何もなかった。」

杉山さんのお父さまがなぜ、物資の限られる時代から写真を撮り続けてきたのか。その真意はわからない。けれどこの一言が、きっと全てなのだろう。自分の中の「撮りたい」という素直な衝動のままに切り取ったかつての駅裏の風景の数々。それらが多くの人の目に留まる機会を得たのは、杉山さんの言葉を借りるなら「神様が『見てござった』」結果といえる。

もしかしたら今の時代は手軽に撮れるぶん、意味合いや他者からの評価を求める意識が強まっているのかもしれない。けれど、どんな時代だって、写真を撮る理由は「好き」だけで十分なのだ。

それに、今すぐに意味や価値を見いだせなくても、時を経て意味や価値を見いだされる可能性だってある。もちろん、されないかもしれない。誰にも先のことは、わからない。だからこそもっと気軽に撮ってもいいのだろう。自分が預かる、今を。

インタビュー中、杉山さんが「今度、チベットに行くんです。デジカメを持っていくために、対応するSDカードを買ってきました」とうれしそうに話す場面があった。杉山さんの傍らには今も、カメラがある。

WRITER PROFILE

伊藤 成美

グラフィック・書籍デザイナーや玩具の企画開発アシスタント、学習塾教材制作など、さまざまな職を経験したのち、縁あってウェブメディア運営会社に入職し、ライターとしてのキャリアをスタート。医療従事者を中心に、主にインタビュー記事のライティング経験を積む。2020年独立。ライフワークは「文脈」「つながり」をひもとくこと。心の中に湧き上がった「なぜ」を起点に、日々いろいろな物事に思いを巡らせ(妄想して)いる。

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