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踊る猫に、祈願成就の猫? 名古屋の猫の妖怪たち

TEXT : 神野 裕美

2023.10.20 Fri

タイトル写真:一寿斎芳員『百種怪談妖物双六』 和泉屋市兵衛 安政5(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

ノラや…。行方知れずになった愛猫を想って泣いた内田百閒先生のみならず、谷崎潤一郎、村上春樹、歌川国芳、熊谷守一など、時代を越えて多くの作家や画家に愛されてきた猫。その愛くるしい姿やしぐさに魅了された文人たちは、その手でさまざまな作品に猫を描いてきた。さかのぼれば、822年頃の成立とされる現存最古の仏教説話集『日本霊異記』にも、そして、紫式部の『源氏物語』にも猫は重要な役割で登場する。猫はなぜこんなにも、人の心をとらえて離さないのだろう。

 

どこか妖しき孤高の存在

猫は古代エジプトで王族に飼われていた時代から、かわいい愛玩動物としてだけでなく、神聖な存在として大切に扱われてきた。夜行性で夜になると瞳がキラリと光る様子、甘え上手な一方で人間に従順ではない性格が、どこかミステリアスで気高い雰囲気を醸し出しているせいもあるのだろう。悲しいことに、そうした妖しさが裏目に出て、キリスト教が普及したヨーロッパでは魔女の手先として迫害にあった時代もあった。

猫を妖しきものと見るのは、何もヨーロッパの人々だけに限らない。化け猫をはじめ、猫の妖怪の話が数多く伝えられてきたように、日本人も猫には何か得体のしれないものを感じていたのだろう。そのためか、犬に比べて圧倒的に数が多いのが猫の妖怪。名古屋にも猫の妖怪の物語が伝えられている。

 

ユーモアたっぷり、踊る猫又

熱田区伝馬町に伝わるのが、猫又の話だ。猫又とは尾が二股に裂け、二足歩行するようになった猫の妖怪のことで、人の言葉を話し、人を襲って食べたり、さらったりするという。そもそも猫又が日本の文献に登場するのは、鎌倉時代のこと。どのような化け物かということには諸説あるが、江戸時代には、人に飼われていた猫が年を取ると猫又に化けるという説が広まり信じられてきた。

伝馬町の話は江戸時代、安政 3、4 年(1856、57)頃に成立したとされる仏教説話集、『尾張霊異記』に書かれたものだ。江戸時代から明治時代を生きた漢学者・富永華陽(1816~1879)によって、尾張地方のさまざまな奇譚がつづられている。

それによると、伝馬町の井筒屋久兵衛はある日、不思議な光景を目撃する。夜中の2時頃に、尻尾が二つに割れた大きな猫が4匹の猫を引き連れて縁側にやって来て、それぞれ手拭いをかぶると、手拍子を取って歌い、踊り始めたのだ。久兵衛はこの様子を友人の医者に見せてやろうと、翌日の真夜中に友人を招く。前夜と同じように、夜中、猫たちは縁側で踊り始めたが、医者が思わずくしゃみをしてしまう。その音に驚いた猫たちは、あっという間に消えてしまったという。

化け物というには、あまりにもかわいらしい「踊り猫」の物語。こんな猫又なら、いつでも現れてほしいと思ってしまう。

 


『新版妖怪飛巡雙六』名古屋 井筒屋文助(国際日本文化研究センター所蔵)

 

ちなみに、猫又は全国区の妖怪で、猫踊りの伝承も全国各地に残されている。島根県には、寺の飼い猫が猫又になり、夜になると袈裟をかぶって町へ出て唄を歌って歩いたという民話が伝わっている。 新潟県には、家畜や人を襲う害獣として退治された猫又が葬られたことから、通称「猫又稲荷」と呼ばれる神社もある。神奈川県横浜市の市営地下鉄には、付近にかつて猫の踊り場があったという伝承から、「踊場」という名の駅まである。こちらは恐ろしい害獣ではなく、お茶目でユーモラスな猫又たちだったようだ。

 

祈りを受け止めた異形の猫

もう一つ、名古屋市中区に伝わる猫の妖怪の物語を紹介したい。名前は「おからねこ」という。江戸後期、尾張の戯作者・石橋庵真酔による『作物志(さくもつし)』には、「異獣」の見出しのもと、次のように書かれている。

「城南の前津、矢場の辺に、一物の獣あり。大きさ牛馬を束ねたるが如し。背に数株の草木を生ず。嘗ていづれの時代よりか、此所に蟠(わだかま)って寸歩も動かず、一声も吼(ほえ)ず、風雨を避けず、寒暑を恐れず、諸願これに向て祈念するに、甚だいちじるし。然れども人、其名を知らず、形貌自然と猫に似たる故に、俚俗(りぞく)都(すべ)て御空猫(おからねこ)と称す」

 


『作物志 ; 浮世穴見論』 彙齋時恭 [著] (京都大学附属図書館所蔵)

 

 

その獣は牛や馬ほどの大きさで、背中に草木が生えている。風雨の中でも、暑かろうが寒かろうが、じっと動かずそこにいて、吼えもしない。人々が祈ると、願い事も叶えてくれた。ただ、誰も名前を知らなかったため、猫に似た姿から「おからねこ」と呼ぶようになった、とある。

恐ろしい外見でありながら、人をおびやすこともせず、祈願の対象となったおからねこ。どんな状況でも黙って静かに受け入れるその境地は、どこから来ているのだろう。気になる理由は、「中区前津に伝わる不思議話」として、名古屋市中区役所のホームページや動画でも紹介されている。そもそもおからねこは、美しい猫だった。しかし、その美しさを鼻にかけるあまり…。おからねこにまつわる、哀しくもあたたかな物語、ぜひご覧いただきたい。

ところで、背中に草木が生えた異獣と言えば有名なのが「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」だ。記紀神話によると八つの谷と八つの丘にわたる胴体の背に苔や檜、杉が生えているという。また、奈良には背中一面に笹が生えた大猪「猪笹王」の伝承が残る。別々のものが合体したり、体に異物が生えたりした異形の妖怪たちは、昔から人間の想像をふくらませる存在だったのだろう。その物語は、全国各地で語り継がれている。

ちなみに、名古屋市中区の丸田町交差点。南西角の歩道上に江戸末期頃に建てられたとされる道標がひっそりと立っている。今はもう読めなくなっているが、そこには

「東 天道 八事みち 南 さん王 すみよし あつた道 西 矢場地蔵 おからねこ道 北 法花寺町 大曽根道 」

 

と刻まれている。熱田や八事、矢場地蔵の名からうかがえるように、江戸末期ごろ社寺めぐりのための道標であったようだ。おからねこも人々の信仰の対象であったことがしのばれる。

 

現在の地下鉄上前津駅近くには、かつて「於加良根子(おからねこ)神社」と呼ばれた神社がある。今は大直禰子(おおただねこ)神社と言い、猫を祀った神社ではないとのことだ。

 

大直禰子神社

 

なぜ「おからねこ」と呼ばれたのかについては、江戸後期に書かれた高力猿猴庵の『尾張名陽図会』には、お堂に狛犬(お唐犬)の頭をまつっていたのがお唐猫と呼ばれるようになったという説や、後にお堂もなくなって近くの榎の根っこだけが残っていたため「お空根子(からねこ)」と呼ぶようになったという説があると記されている。

 

残念ながら、おからねこの足跡は消えてしまったが、心優しき妖怪の物語は今もこのまちで受け継がれている。運が良ければ、ひっそりと息づくおからねこに逢えるかもしれない。

 

<参考文献>

  • ねこ検定初級・中級編
  • ねこ検定中級・上級編
  • 国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース
  • 名古屋市熱田区ウェブサイト
  • 名古屋市中区ウェブサイト
  • 上越市ウェブサイト
  • 上北山村ウェブサイト
  • 横浜市ウェブサイト

 

 

 

WRITER PROFILE

神野 裕美

1998年よりフリーのコピーライターとして活動。2010年、クリエイティブディレクターとともに株式会社SOZOS(ソーゾーヅ)設立。新聞、ポスター、パンフレット、Webといった各種コミュニケーションツールの企画立案・制作、ロゴ制作、ネーミングなどを手掛けている。最近はまちづくり支援の仕事も多く、なごやのまちを盛り上げるべく、多角的な視点からなごやの魅力を再発掘中。インフォグラフィックでなごやめしの紹介も。
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