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名古屋控訴院クロニクル

TEXT : 村瀬 良太

2023.07.19 Wed

名古屋市市政資料館外観。旧名を名古屋控訴院と言い、現在の高等裁判所の位置付けとなる。

 

「名古屋控訴院100年祭」

名古屋控訴院、現名古屋市市政資料館は、大正11年に名古屋城南東の外濠沿いに建てられた、ネオ・バロック様式の佇まいが美しい建築である。

外観を彩る赤いレンガ風タイルと白い柱による構成は、19世紀ドイツで流行した新古典主義建築のデザインを踏襲したもので、大日本帝国憲法の策定にあたり、ドイツ圏の憲法を参照したことに因んでいる。

2022年、この建物は建設から100年を迎えた。それにあわせて「名古屋控訴院100年祭」が開催され、期間内には、企画展やワークショップ、建物ツアーやコンサートなどの催しが行われ、多くの参加者で賑わった。

私はそのうち、企画展「たてもの百年ものがたり」に携わり、名古屋控訴院の建築的な魅力や、歴史的な変遷を紹介するパネルの制作に協力した。また、それを実物を通して紹介する建物ツアーを行った。

ここでは、その時の内容を振り返りながら、私がいま思うことをリポートしたいと思う。

 

名古屋控訴院の魅力

名古屋控訴院の建物は、設計から工事の施工管理までを司法省(現在の法務省)の技師たちが行っている。工事計画総推主任の山下啓次郎は、大阪控訴院のほか、奈良監獄や金沢監獄などを手掛けた、監獄建築のスペシャリストとして知られている。また設計監督主任は、山下のもとで大阪控訴院の建設に携わった金刺(「かねさし」もしくは「かなせき」)森太郎が担当した。わかりやすく言うと、帝国大学出のエリート建築家と、叩き上げの現場監督のコンビだ。

名古屋控訴院の建築的な魅力は、デザインの見事さに尽きる。建築の世界では、遠くローマ時代から「用・強・美」を備えた建物が名建築であるとされてきた。用とは機能、強とは強度、美とは美しさを指す。名古屋控訴院では、それらを備え、それがデザインへ昇華されている点が最大の魅力と言える。

例えば、外観に見られる柱などの白い部分は、目に留まる箇所や窓台には御影石を用い、それ以外は人造石で形成されている。特に、中央の車寄せにあるイオニア式の柱などは、柱身が一本ものの立派な石柱で、ひときわ目を引く。

レンガ風タイルと人造石による構成。縦のストライプ(ジャイアントオーダーという)の階層がメインフロアを示す

 

また内部空間でも、大階段の手すりや柱の下部には大理石を使用しているが、階段側面や柱の上部などはマーブル塗りという大理石風の左官仕上げにしている。

吹き抜けの柱。下部が大理石、上部がマーブル塗り仕上げとなっている。遠目からは差が分からない

 

これらの材質の違いは、限られた予算の中でも見栄えを保てるように、豪華な素材と安価な素材を巧みに使い分けた、「用」に向けられた工夫だ。

また「強」で言えば、この建物の壁はレンガ造であるが、各階の床や吹き抜けに架かる大階段などには、当時最先端の技術だった鉄筋コンクリートが用いられている。これは防火対策の目的で使用されているが、一方で、レンガ造では難しい大きな吹き抜け空間をつくり出すことにも一役買っている。

そんな建築的な工夫がもっとも集約されているのが、外観正面にそびえるドームである。ドームは木造で形づくられ、下部の白い壁の部分はレンガで積まれているが、これはドーム下の大会議室があるため軽量化されたものだ。ドーム内部は一般には公開されていないが、木造の小屋組の美しさは、なんとも言えない感動を誘う。

ドームの小屋組。整然と組まれた木組みが美しい。頂点の飾りの重さを束と鉄の円板で受けている(非公開)

 

西洋建築を元にかたちづくられた洋風建築は、幕末から明治以降にかけて日本に移入された建築文化であるが、これほどクオリティの高い作品は全国的に見ても珍しい。開国以降50年以上をかけて蓄積された、洋風建築の畢生の作品として、名古屋控訴院を位置付けることもできるだろう。

そんな名建築も、一度、取り壊しの危機に瀕したことがあった。

ドーム詳細。上部が木造の小屋組で下部がレンガ積み。外観はドームに向かって収斂される秀逸なデザイン

 

保存運動と名古屋青年都市研究会

昭和40年代、法務省(旧司法省)は、大阪高等裁判所(旧大阪控訴院)や東京の最高裁判所(旧大審院)などの庁舎を取り壊し、新たに建て直す計画を進めた。

名古屋控訴院(当時すでに名古屋高等裁判所に名称を変更しているが、旧庁舎はこの名称で続ける)も例外ではなく、昭和49年に取り壊しが通達された。

新たな名古屋高等裁判所の庁舎は丸の内に建てられ、旧建物のあった場所は公園にすることで、東海財務局と名古屋市の間で土地の換地計画も滞りなく進められた。

それに反旗を翻したのが、若い名古屋市職員たちだった。通常、これら行政間でのやり取りは、決定事項として発表されるまでは表に出ることはない。その隙をつくかたちで、彼らが興した「名古屋青年都市研究会」で名古屋控訴院の研究レポート『建築的文化遺産の保存に関する研究』をまとめ、その歴史的・文化的価値を詳らかにした。

当初、名古屋青年都市研究会のメンバーは10~15人程度だったという。彼らの内の数人が、博物館明治村の建築委員で名古屋大学教授の飯田喜四郎氏の元へ、手作りのレポートを携えて訪れた。飯田氏は、その時の彼らの切羽詰まった表情が今も忘れられない、と述懐している。

レポートを受け取った飯田氏は、名古屋控訴院が保存すべき建物であることを認めると、そこに自身の推薦文を寄せ、直ちに文化庁ら東京の本庁へ送ることを指示した。国の決定を覆すための材料として、この建物を重要文化財に指定することを視野に入れての行動だった。

一方で、この研究レポートは朝日新聞に取り上げられ、一般に広く知られることとなり、にわかに市民たちの声も上がりはじめた。その後押しを受けるかたちで、名古屋市側も東海財務局と粘り強く交渉を続け、保存の道が探られることになった。

そして昭和59年、名古屋控訴院は重要文化財に指定され、その間に進められた行政的な手続きとあわせて、建物は残されることになった。また、公園は「名城公園」の一部とすることで、法規的な問題も解決された。それら実務的な扱いに関しては、名古屋市職員たちが知恵を絞った興味深いエピソードがあるのだが、今は割愛する。

大階段と吹き抜け。ステンドグラスが美しい。ベランダからの採光で明るい。構造と意匠が融合した見事な空間

 

画期的な保存形式と補強工事

保存の決まった名古屋控訴院は、名古屋市庁舎内や稲葉地配水塔(現アクテノン)に置かれていた行政資料を保管し、それらを展示・閲覧できる施設に転用されることになった。

また、それとあわせて、ギャラリーなど市民に開かれた諸機能を備える施設としての運用も検討された。名前は、行政資料を扱う公文書館ではなく、より開かれたイメージで「名古屋市市政資料館」に決められた。

一方、建物の保存については、重要文化財の指定を建物全部ではなく、外観と大階段、および2階大会議室に限定した。これは、保存の観点から建物を丸ごと指定するケースが一般的だった当時、該当する箇所を限定することで、それ以外の諸室の改修および活用を柔軟に対応できるようにした、画期的なやり方だった。

おそらくそれは、名古屋控訴院がレンガ造だったことも無関係ではない。この建物が重要文化財に指定された頃、これほど大規模なレンガ造の建築は前例がなかったという。重要文化財の建物は、構造形式も当初の姿を保つことが求められるが、レンガ造は現在では構造体として認められない。

そのため、何らかの構造的な補強を施す必要があり、また将来的に大規模な補修工事が必要になった場合に備えて、柔軟に対応できるような形式が求められたのだろう。現在の名古屋市市政資料館では、小屋組内で鉄筋コンクリートの梁が補強されたり、レンガ壁に穴を開けて鉄筋を打ち込み、特殊な充填剤を入れて耐震性を増している。

それ以外にも、老朽化した建物の修復や復原についても興味深い試みがなされている。特に大階段のある吹き抜けの周りは、空間的にも複雑な構成であるため、アクロバティックな工夫がなされている。

ベランダに設けられた控壁。構造的に弱い吹き抜け空間を支え、同時にドームからの荷重を受け止める

 

具体的に言うと、吹き抜けの2階周りにあるバルコニーに新設された控壁(ひかえかべ)がそれにあたる。控壁とは、ゴシック建築の構造形式で、外壁の外側に補強のための壁を設ける形式をいう。ここでは、吹き抜けへの採光を考慮して、ベランダの外側の目立たない場所に控壁が設られた。

またこの控壁は、ドームの構造的な弱点も引き受けている。先に述べたドームの軽量化の工夫は、構造的に無理をしている部分があり、地震の揺れに対して、特に吹き抜け方向が弱い。その力を控壁で受け止め、大階段正面のステンドグラスのはまる厚い壁に伝える役割が持たされている。

これら補強と改修の工夫は、ドームと吹き抜け空間の美しさを保つために熟慮された専門家たちの知恵の結晶として、今後高く評価されるべきものである。

 

 

まち歩きと建物ガイドがになうもの

名古屋市市政資料館では、「名古屋控訴院100年祭」を終えた現在も、建物ツアーや謎解きイベントなどが継続して開催されている。また2階の休憩室では、企画展に合わせて制作されたドローンの映像も上映され、普段は立ち入ることのできないドーム内の姿などを見ることができる。101年目を迎えた建物は、より多くの人々に親しまれている。

私が「名古屋控訴院100年祭」に携わることになったきっかけは、2019年に開催された「名古屋市市政資料館開館30周年イベント 市政資料館まつり」のスペシャルガイドツアーに遡る。

その折に、建物の保存に奮闘した名古屋青年都市研究会のメンバーにインタビューを重ね、当時の話を収集して、建物ガイドへ盛り込んだ。インタビューの際、彼らがその後、名古屋市の文化のみちや有松の町並み保存、あるいは中川運河の松重閘門の保存などに携わったことを知った。

戦後の名古屋で、戦災をくぐり抜けた建物や情緒ある町並みの保存と活用に尽力した職員たちが、名古屋青年都市研究会に所属していたことは感慨深い。

そんな彼らも多くが退職し、残念ながら鬼籍に入られた人もいる。少し前まで関係者たちが共有していたドキュメントが、言い換えればまちを形成した人々の物語が、だんだん薄れ、忘れられようとしている。

私は、それらの人々の仕事を掘り起こす時期が来ているように感じている。そして、まち歩きや建物ガイドといったツールは、そんな物語を掘り起こし、名古屋のまちを楽しみ、愛着を持つための新しい視点に繋がると確信している。

 

019年の「市政資料館まつり」で行った建物ツアー。折り紙建築のワークショップと同時開催された

(画像提供:名古屋市市政資料館、水野晶彦、熊本仁志)

 

WRITER PROFILE

村瀬 良太

建築史家。1977年鹿児島生まれ。名古屋造形大学非常勤講師。あいちのたてもの博覧会実行委員会委員長。著作に『あいちのたてもの』シリーズ、共著に『名古屋テレビ塔クロニクル』など。また「藤森照信とモザイクタイルミュージアム展」や「名古屋控訴院100年祭」の企画や監修にも携わる。