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アンダーグラウンドではない、ごく日常に近い遊廓。
大須にあった「旭廓」の痕跡を探して。

TEXT : 齊藤 美幸

2023.05.11 Thu

タイトル写真:『花園町』/名古屋市図書館「なごやコレクション」所蔵

名古屋の代表的な商店街である大須。この周辺にはかつて、「旭廓」(あさひくるわ、あさひゆうかく、しんち)と名付けられた遊廓が存在した。今となっては、まちを歩いても当時の建物は見当たらない。遊廓が栄えた時代の名残は、跡形も無く消えてしまったのか? いや、けっしてそうではない。

その痕跡を探しに、やっとかめ文化祭の「まち歩きなごや」でガイドを務める「ことぶき」さんと大須のまちへ出かけた。東海遊里史研究会として活動し、特に戦前の遊廓史に関する調査に打ち込むことぶきさんの視点で現地を歩くと、そこには何が見えるのだろうか。

 

北野新地から旭廓へ、そして中村遊廓へ

旭廓の前身となったのが、大須観音の北にあった「北野新地」だ。安政年間に開設され、明治7年に遊廓地として許可された北野新地では、約40軒の「席貸茶屋」(娼妓を置く妓楼、後の貸座敷)が営業していた。しかし、三方を寺社敷地に囲まれた狭い土地だったため、大須観音の堂裏・堀川以東に新たな遊廓地の許可を得て、明治8年から10年にかけて旭廓として移転開設された。

旭廓の全盛期、大正2年には貸座敷175軒が軒を連ね、娼妓1715人が働いていたそうだ。ところが、都市拡大が進むと、市街地に近いことから郊外へ移転させるべきといった議論が起こるようになった。一時は稲永新田(現・港区)を移転先とする県令も出されたが、結果的には愛知郡中村(現・中村区)への移転が決まった。こうして、今からちょうど100年前の大正12年に「中村遊廓」が開設されたというわけだ。

……と、ここまでが旭廓の成立から終末までの変遷である。

 

はじまりの地・北野新地跡と大須観音を歩く

まずは順を追って、北野新地跡から案内してもらうことに。

やってきたのは、大須2丁目の「北野神社」。北野新地の名前の由来となった場所であり、さらには「大須」という地名とも深い関わりのある神社だ。

北野神社はもともと、尾張国長岡庄大須郷(現・岐阜県羽島市大須)にあり、当時は「北野天満宮」と呼ばれていた。元弘3年には北野天満宮の別当寺院として、後に「大須観音」と呼ばれる「真福寺」が創建された。慶長17年、徳川家康の命により、北野天満宮と真福寺が現在地に移転。そして大須観音の門前町として発展したこの地が、大須と呼ばれるようになった。

「北野神社の両サイドに2本道が通っていますが、この道に囲まれた一角が北野新地の範囲です。現在でも、区画はほとんど変わっていません。実際に歩いてみると、敷地の狭さがわかりますよね」と説明することぶきさん。

『安政年間大須新地遊廓之図』/名古屋市図書館「なごやコレクション」蔵『安政年間大須新地遊廓之図』/名古屋市図書館「なごやコレクション」蔵

北野新地が描かれた図面では北野神社が「天満宮」として赤く囲まれており、どこまで区画を正確に表現しているかは定かではないが、全体の規模感がつかめる。

「ここで見てほしいのが、玉垣に刻まれた寄進者の名前です。たとえば、一番端の垣に書かれている『㐂の惠(きのえ)』は芸者置屋の屋号。『權助(ごんすけ)』は旭廓で有名だった芸者さんの名前です」

花街としてにぎわった旭廓。貸座敷だけでなく、宴席に興を添える芸者(芸妓)を抱えておく「芸者置屋」も数多くあった。ことぶきさんが資料と照らし合わせて調べた限り、この玉垣に残されている名前のほとんどは、娼妓ではなく芸者の名前だという。

稲荷社の赤い鳥居には、「本家長壽樓(長寿楼)」という貸座敷を営んでいた夫婦の名前も。

ことぶきさんが遊廓跡を歩くときにはいつも、神社や寺の石造物・寄進物の随所にある文字を細かくチェックするそうだ。

「見落としていたところに、意外な発見があることも。年月とともに風化が進むと文字が判読しづらくなるので、今のうちになるべく多くのものを見て記録したいと思っています。じっくり見るなら、朝に来るのがおすすめですよ。光が綺麗に差し込んで立体的な影ができるので、文字が読みやすくなるんです」とポイントを解説してくれた。

続いては大須観音へ。仁王門のすぐ横に目を向けると、大きな石碑がそびえ立っている。「裏へ回ってみてください」とことぶきさん。

すると、そこには大きく「千壽樓」とその楼主の文字が刻まれていた。

「千壽樓(千寿楼)はかつて旭廓にあり、中村遊廓へと移った貸座敷です。中村遊廓跡にある神社にもこの楼主さんの名前が残っています。きっと、信心深い人物だったんでしょうね。大須のにぎわいの中心である大須観音に、大々的に楼主の名前が残されている。ここから読み取れるのは、当時の遊廓は一般社会に自然に溶け込んでいたということです。遊廓というと、裏社会のようなイメージを持たれることもありますが、もっと日常的な存在だったんですね」

境内の手水舎にもまた楼主の名前が。 大須観音境内の手水舎にもまた楼主の名前が。

 

約2万坪の花街・旭廓跡の8つの町を歩く

さて、ここから本格的に旭廓跡のエリアに入っていく。

「『旭廓』と書きますが、当時は『しんち』という通称で呼ばれていました。遊廓に行くときに正式名称で『あさひくるわに行こう』とはあまり言わないのでしょうね」とことぶきさん。大須観音の堂裏に位置することから「新堂裏」という俗称もあったと教えてくれた。

現在、大須観音の西には、熱田方面から名古屋城方面へと続く「伏見通」があるが、旭廓の時代にはこの大きな通りはなく、大須観音の堂裏から堀川以東までを結ぶいくつもの道沿いに遊廓が建ち並んでいたそうだ。現在の「若宮大通」があるあたりが、遊廓の北端。伏見通を跨ぐ歩道橋に上ると、約2万坪にも及んだというその広さを体感できた。

「若宮大通の上を通る、名古屋高速の緑色の高架が見えますよね。あのあたりまで遊廓の区域だったんです。想像してみると、かなり広かったことがわかるはずです」

名古屋市 編『名古屋市史』風俗編より 名古屋市 編『名古屋市史』風俗編より

「また、当時の地図を見ると、旭廓は遊郭と聞いてイメージするような“囲われた区域”ではなかったことも読み取れます」

たしかに、区域内は貸座敷や芸者置屋が多くを占めているが、飲食店や物販店、床屋なども遊廓と共存していたようだ。一方で、移転後の中村遊廓は外周を水路で囲むことで区切りを引いていたことから、はっきりと構造が異なることがわかる。

旭廓には、8つの町(区画)があったとのこと。東西を横断する通りには、吾妻町・若松町・花園町・音羽町・東角町、さらに南北を縦断する通りには、常盤町・富岡町・城代町という町名が名付けられていた。一番南の吾妻町の角地には、女性たちにさまざまな教育を行う「女紅場」があり、ここは遊廓運営の組合事務所にもなっていたという。ちなみに、大須観音の石碑で名前を見かけた「千寿楼」は若松町と常盤町の通りが交わるあたりにあったそうだ。

Googleマップを開くと、若松町は「榎若松町線」、花園町は「花園通」など、一部の通りの名前は今も残されていることが確認できる。

「ビルや歩道橋の名前などにも、当時の町名が入っているので探してみてください」

あそこにも、ここにも……。歩いているうちに、いくつもの町名を見つけることができ、観察眼が鍛えられた気分になる。

当時、一番広かったという花園町の通りに差しかかる。

『名古屋金城及名所図』新地遊廓/「東海遊里史研究会」蔵 『名古屋金城及名所図』新地遊廓/「東海遊里史研究会」蔵

「旭廓の様子を表した版画や絵葉書にも、花園町の風景がよく描かれています。道路の中央に桜が植えられていて、今で言う“フォトジェニック”なスポットだったんですね」

さらに北にある音羽町は当時3メートルほどしか道幅がなく、向かい側の軒まで猫が飛び越えられるほどの狭い通りだったことから「猫飛び横丁」とも呼ばれていたとか。こうした俗称から過去の風景を想像するのも面白い。

御園座へと続く「御園坂」(当時の通称)を横目に、「こうした高低差も当時の風景を想像するヒントになります」と話すことぶきさん。明治・大正時代への脳内タイムスリップを試みつつも、最後の目的地と歩みを進める。

 

旭廓関係者に親しまれた洲崎神社にも残る痕跡

到着したのは、若宮大通沿いにある「洲崎神社」。縁結びのご利益があるといわれているが、当時は旭廓周辺の氏神としても親しまれていたそうだ。

「こんな石碑も残っているんです」と案内され、近づいてみると……。

立派な石碑に「常盤町」の文字がしっかりと刻まれている。その下に並んでいるのは旭廓関係者の名前だという。

さらに、灯籠には「花園町氏子」の文字も。境内には「喜月」という芸者置屋の名前も残されており、石造物を観察するだけでも、遊廓と神社のつながりが浮かび上がってくる。

「洲崎神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主神としていますが、中村遊廓跡の中村区日吉町にも『素盞男神社』があります。そちらにも遊廓関係者の名前があちこちに刻まれていることから、中村遊廓への移転以降も神社で商売の成功を祈願し、信仰を大事にしていたことがわかります」とことぶきさん。

中村遊廓への移転については「集団移転と表現されることも多いのですが、実際には、貸座敷168軒のうち、移転して貸座敷業を継続した業者は75軒にしか満たないのです。残りの業者は廃業したり、経営権を譲渡したり、転業して大須に残る選択をしたり。名古屋の中心部から離れた場所では、商売を成功させられないと考えた経営者も多かったのでしょうね」と補足する。

大須2丁目の「富士浅間神社」にも芸者置屋の屋号が残っている。 大須2丁目の「富士浅間神社」にも芸者置屋の屋号が残っている。

「このほかにも、大須周辺の寺社の各所で遊廓関係者の名前が見かけられます。大須には遊廓の痕跡が何も残っていないと言われることもありますが、そんなことはないと伝えたいですね。痕跡=建物とは限りません。こうしてよく観察すれば、町名や店名、人名などさまざまな痕跡が見つけられます。逆に、全く関係のない建物が遊廓の遺構だと勘違いされ、インターネット上で発信されていることもあります。また、遊郭に対する間違ったイメージが拡散されることもしばしば。誰でも気軽に発信できる世の中だからこそ、情報の正確性に注意して記録・整理していく必要があると思います」

遊廓はアンタッチャブルな場所して扱われることもあるが、その一方で、地域に経済発展・文化発展をもたらしてきたことも事実。一面だけを切り取って語るのは難しく、簡単には表すことのできない歴史を抱えている存在なのだと思う。ことぶきさんの案内のもと旭廓跡を歩くことで、その歴史が少しだけ覗き見えた気がした。

また、遊廓というと、建築様式の美しさに注目されることが多いが、そこで働いていた人々の暮らしや地域との関わりにも目を向けてみることで、まちの見え方は変わってくるのだろう。

 

参考文献/
『東海遊里史研究1』(発行:土星舎、発売:風媒社)
『愛知県統計書』

WRITER PROFILE

齊藤 美幸

名古屋在住。まちと文化が好きなライター。広告制作会社での勤務を経て、2020年からフリーランスとして活動中。まちの風景や歴史、地域をつくる人の物語などを伝えている。