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亀山巌と名古屋豆本

TEXT : 谷 亜由子

2022.02.21 Mon

名古屋豆本とは

お互いに本好きで古書店巡りを楽しむのが共通の趣味である友人と、神田神保町の古書街へ出かけた折、ある本屋で珍しい本を見つけてその場でプレゼントしてもらったことがある。

爽やかな空色の表紙にカエルのイラストの装丁。タイトルは『青の世界』。
何気なくひっくり返して見た裏表紙には「名古屋豆本」の文字。

てのひらに収まるほど小さく、ミニチュアのような可愛らしさもさることながら、東京の古書街の片隅で思いがけなく目にした「名古屋」という文字に親近感を覚え、俄然、興味をそそられた。かれこれ10数年も前のこと。それが私の名古屋豆本との出会いだった。

名古屋豆本『青の世界』は神田神保町の呂古書房にて購入。

 

その後、調べてみると、名古屋豆本は全部で144号発行されており、ジャーナリストの亀山巌という人が新聞社の社長という肩書きを持ちながら趣味としてほぼ一人で作り続けていたことなどがわかった。

「名古屋豆本といえば亀山巌」と、愛好家やコレクターらの間では非常に有名な存在であることもそこで知ったのだが、本好きを自称していながらかつての私がそうであったように、名古屋の人たちの間でも一般的に認知度は低い。とくに若い世代となるといまや知る人はほとんどいないというのは如何にも残念だと思った。

そんなことから2021年のやっとかめ文化祭「まちなか寺子屋」の一コマとして名古屋豆本をテーマにしたイベントを企画させていただくことになり、さらに詳しくリサーチを進めていくと、折しも風媒社から『亀山巌のまなざし〜雑学の粋人モダニスト』という書籍が発売されたばかりだという情報を得た。
さっそくこの本の制作を手掛けられた木下信三先生と風媒社の編集者・林圭吾さん、お二人のもとを訪ね、まちなか寺子屋へのご協力を仰いだという次第で、「亀山巌のまなざし〜雑学の粋人が編んだ名古屋豆本」というイベントのタイトルもこの本から拝借させていただいた。

2020年12月、風媒社から発売された『亀山巌のまなざし』
タイトルは編集担当の林圭吾氏の命名によるもの。

 

木下信三先生は郷土文学史研究の第一人者で、27歳という親子ほどの歳の差があるにもかかわらず生前の亀山と親しく交流され、280通にもおよぶ書簡を所蔵されている。
亀山から直接依頼を受けた名古屋豆本の執筆者の一人でもあり、140を超えるタイトルのうち、木下先生の著されたものがもっとも多いのだという。この度の寺子屋では亀山の人柄を偲ばせる思い出や興味深いエピソードの数々を聞かせてくださった。

郷土文学史研究のほか、山頭火の足跡を追ったものなど数々の著書がある木下信三先生。
生前の亀山巌と親しく交流された。

 

木下先生が執筆した名古屋豆本の数々

 

 

雑学の粋人と呼ばれたモダニスト・亀山巌

明治40年、名古屋市中区に生まれた亀山巌(1907〜1989)は、愛知県工業学校図案科に進み、一年生(12歳)のときに早くも児童雑誌に自作の挿絵を付した童話を執筆。これが生涯にわたる文筆家、画家としてのマルチな活動のスタートとなる。

卒業後、上京して装飾図案社に就職するも2年足らずで名古屋に戻り、翌年には名古屋新聞社(現:中日新聞社)に入社。自ら「詩人になりたかった」と語っていたとおり、さまざまな新聞や同人雑誌にエッセイや小説、詩などを発表し続けた。

昭和37年、名古屋タイムズ社の社長に就任。新聞社の経営に従事する傍ら、60歳の時に名古屋豆本を開版。1号300部限定で出版され、毎号会員のもとへ郵送されていたそうである。
亀山のメモに〈印刷製本こそ他へ頼んでいるが、あとは原稿依頼から発送のあて名書き、郵便局へもっていくまで人手を借りずに自分ひとりでやってきた〉とあるように、140冊あまりを数えるすべての豆本の企画・装幀、装画、さらにあて名書き、発送作業までを自身で手掛けたという。

詩人、装本画家、随筆家、市博物館協議員、雑学倶楽部会長等々、幾多の肩書きを有していた亀山だが、中でもお気に入りだったのは「詩人」と「名古屋豆本版元」であったそうだ。
亀山がそれほどまでに夢中になった豆本づくり。そもそも豆本とはどのような本なのか、また、名古屋豆本以外にどんなものがあるのかなど、以下、イベントでの木下先生のお話から引用させていただく。

2021年10月31日 中区錦二丁目「短歌会館」にて開催されたまちなか寺子屋の模様

 

木下:豆というと我々は大豆とか空豆、小豆、えんどうなどを想像しますが、例えば「豆電球」のように、豆という言葉は「小さい」という意味で使われたりします。つまり「豆本」も「小さい本」ということですね。はっきりとした定義はありませんから、どのサイズまでをそう呼ぶのかを決めるのはなかなか難しい。最近は製本や印刷の技術も発展して、ミリ単位の小さいものも作れてしまう。実際そういった非常に小さいものもありますが、名古屋豆本の基本の寸法は、縦が10cm横が7cm、ちょうど葉書を二つ折りにした大きさです。
版元は…あ、そうそう。今日わたくしは亀山さんのことを「版元」と呼ばせてもらいたいと思います…もともと亀山版元はジャーナリストであったことからも、「本」と呼ぶからにはちゃんと肉眼で読めるものでないといけないというこだわりがあったのかもしれません。

ここで、わたくしが全国各地で見つけたいろいろな豆本をいくつかご紹介したいと思います。

こちら『拾艸集(しゅうそうしゅう)』は山形県の酒田市で見つけた「みちのく豆本」のうちの一冊です。タイトルの通り10人の人が書いた文章が一冊にまとめられていて、その中に亀山版元も名を連ねています。文章の中に〈私にとって「みちのく豆本」の存在は豆本づくりを発願させた機縁なのだ〉とあるように、版元にとって豆本のお手本のようなものだったようです。

みちのく豆本70冊目の記念号『拾艸集』は10人の文章を集めたもの。

 

続いて、京都で作られた、美也古(みやこ)豆本『不死の貴公士』。
執筆者の駒敏郎さんは大阪毎日放送のプロデューサーをされていた方で、名古屋豆本の会員でもあったと聞いております。

駒さんは当時、毎日放送…この地方ではCBCですが、そこで放送されていた「真珠の小箱」という近鉄提供の紀行番組を担当なさっておりました。
ある時、わたくしが版元のご厚意で作っていただいた山頭火を題材にした名古屋豆本をご覧になって「山頭火は近鉄沿線を歩いてはいなかっただろうか」と尋ねてこられたんですね。
そんなご縁から、駒さんとは一緒に三重県でのロケーションに出かけたという思い出があり、その模様を豆本のネタにしようじゃないかということで、『山頭火伊勢路行』というタイトルでも一冊、名古屋豆本を作っていただきました。

外箱つきの美也古豆本『不死の貴公子』

 

次は『中部地方の炉辺伝説』というもので、長野県の霧ヶ峰、車山高原の売店で偶然見つけて購入しました。サイズが名古屋豆本より少し大きいですね。
下の方に「みちかた大豆本」とありますが、これは「大きな豆本」ではなく「大豆本(だいずぼん)」と読むのだと思います。
豆本というのはですね、穀物あるいは豆の名前がつけられていることが多いんですね。少し大きめのものは大豆本、さらに一回りほど大きいのに空豆本というのもありますし、徐々に小さくなって「小麦本」、「米本」、「芥子(けし)本」なんていうのもあります(笑)。

みちかた大豆本『中部地方の炉辺伝説』

 

そしていよいよ名古屋豆本ですが、こちらはかの有名な詩人の春山行夫さんが執筆した『聖母の語史』。春山さん関係の名古屋豆本にはもう一冊、『月の出る町』というものがあります。これは大正13年に上梓された春山さんの第一詩集のタイトルと同じです。

ご存知の方もおられるかもしれませんが、春山さんは東区主税町の出身で、ご自分のお生まれになった主税町界隈のことを「月の出る町」と呼んだのだそうです。
豆本には巻末付録として亀山版元の手書きによる「月の出る町周辺図」もついておりました。

1985年に制作された名古屋豆本 春山行夫著『聖母の語史』

 

名古屋豆本『稲垣足穂詩集』

 

亀山の切り絵による装丁が見事な名古屋豆本『むかし名古屋』

 

名古屋豆本『白瀬の墓』

 

執筆者の伊藤沆氏は猿投(現在の豊田市)生まれで、中日新聞社の記者時代の亀山の後輩にあたる。
このようにさまざまなタイトルで制作された名古屋豆本ですが、最後にご紹介しますのは『恐竜暦』(きょうりゅうこよみ)です。

一年に5回発行されていた名古屋豆本のうち、毎年年末に出されるものは次の年のカレンダーになっておりました。これも亀山版元の発案です。
はじめの頃はその年の干支をモチーフに版画を刷られていたのですが、そのうち干支も一通りやり尽くしていよいよ題材に困ったんでしょう(笑)。あれこれとアイデアを考えておられたようです。それがこの恐竜であったり、あるいは河童や青い鳥なんていうのもありました。
いまこうして見ても非常に面白いですね。

毎年年末に出される豆本はカレンダー仕様に。

 

絵も数字もすべて亀山手製の版画で非常に手が込んでいる。

 

木下先生は亀山の豆本づくりへの想いに敬意を込めて「版元」と呼び、他にも興味深いお話しをたくさん聞かせてくださった。

 

結局、版元はお亡くなりになるまで豆本づくりを22年間も続けておられたわけです。大変なことも多かったでしょうけれど、やはり非常に楽しんで作られていたことがよくわかります。
あて名も印刷でなく、ひとりひとり全て亀山版元が手書きをしポストへ投函する。それまでを含めて名古屋豆本であったわけです。つまり、誰よりも亀山氏自身が豆本づくりを楽しんでいたんですね。

――以上、まちなか寺子屋トークイベントでの木下信三先生のお話より一部抜粋

 

 

名古屋豆本に遊びの精神を結晶させた亀山巌

独特のユーモアセンスと鋭い眼識で世の中のあらゆる物事を温かくやさしいまなざしで見つめたモダニスト・亀山巌とはどんな人であったのか。それを詳しく知るにはぜひ『亀山巌のまなざし〜雑学の粋人モダニスト』を読んでみてほしい。
名古屋豆本だけにとどまらない多彩な仕事ぶりと、明治生まれにして名古屋きってのモダニストと呼ばれた亀山の卓越したセンスと魅力が満載されている。
そんな亀山が眺めた戦後〜昭和時代の名古屋の空気をも味わえる非常に興味深い一冊だ。

WRITER PROFILE

谷 亜由子

放送作家として20年以上にわたり番組制作の現場で活動後、NPO「大ナゴヤ大学」の立ち上げに携わり企画メンバーとして活動。「SOCIAL TOWER PAPER」、「ぶらり港まち新聞」の企画・取材などを担当。地域活性プロジェクトなどの仕事では各地を旅しています。何かの奥に隠れているものを覗くのが好き。蓋のある箱の中身や閉ざされた扉の奥にある空間、カーテンの向こう側の景色が気になります。人の心の奥にある思いや言葉を引き出す取材、インタビューが好きなのもそれと同じなのかもしれません。