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「からくり」とは何か?掘れば、尾張文化の根っこが見えてくる。

TEXT : 齊藤 美幸

2024.02.28 Wed

祭りも、ものづくりも。尾張の文化や産業の源流は「からくり」にあった——

からくりとは何か。その定義は想像以上に広い。辞書を引いてみると、「①糸のしかけであやつって動かす装置」「②糸やゼンマイなどの仕掛けで動くように作った人形」という解説が並ぶ。もとは、糸を引っ張って操ることを表す動詞の「からくる」が名詞化したもので、江戸時代には機械的な仕組みで動くもの全般がからくりと捉えられていた。代表的なものでは、ゼンマイを動力とする機械式時計も、広義な意味でのからくりのひとつだ。

もう少し前置きをすると、2023年の「やっとかめ文化祭DOORS」でも、からくりという言葉が登場したプログラムがあった。全国のからくり時計を調査する「はまなす団」が、名古屋のご当地からくり時計を案内するまち歩きツアーで、大須・伏見エリアをめぐった。

万松寺に設置されている、からくり人形師・八代玉屋庄兵衛氏の遺作「からくり人形 信長」

彼らが話すからくり時計の定義は、「一定の時刻になると人形・光・音・水などを用いたパフォーマンスを行うなど、特殊な動きの機能を持たせた時計のこと」。ここでふと気づいたが、昔は時計そのものが「からくり」だったなら、「からくり時計」は「頭痛が痛い」に近い二重表現のような気もして、日本語の変化の面白さを感じる。

時計に限らず、私たちの暮らしの中にはからくりの機構で動くものが無数に存在する。特に尾張は、山車に乗せる人形から自動車をはじめとした工業製品まで、からくりが文化や産業と強く結びついている地域だ。

せっかくならもっと深く、からくりの世界を覗いてみようではないか。そこで、「からくりといえば、この人」という人物のもとを訪ね、お話を伺った。

 

からくり人形は、江戸時代生まれの“木製ロボット”だった

やってきたのは、名古屋市北区にある工房。お弟子さんに案内された部屋に上がると、鋭い眼光で作業に集中する姿が目に入る。今まさに、作品に命を吹き込んでいたところだろうか。思わず声をかけるのをためらっていると、立ち上がって出迎えてくれたその人こそ、からくり人形師の九代玉屋庄兵衛氏だ。日本で唯一、江戸時代より続くからくり人形師の家系の現当主として知られる。

この日ちょうど製作をしていたのは、「座敷からくり」の一種である「茶運び人形」。江戸時代に考案された伝統的なからくり人形だが、その中には当時の最先端技術が詰まっているという。

「茶運び人形の完成品もありますよ。お見せしましょうか」と玉屋氏。「人形が持っている茶托に、茶碗を置いてみてください」と促されるがまま、そっと茶碗を乗せてみると、人形が前に向かって動き始める。「茶運び人形は、客人を驚かせ、もてなすために使われるものです」。茶席で客の前までお茶を運び、茶碗を取ってもらうと停止し、お茶を飲んで茶碗を戻してもらうと旋回して帰ってくる。カタカタと歩く姿がなんとも愛らしい。

内部の機構を覗かせてもらうと、複数種類の木材でできた歯車が美しく噛み合っているのが分かる。「全部で7種類の木を使っています。歯車はカリンで、軸芯はアカガシ、ほかにツゲ、コクタン、竹、顔や足にはヒノキ、胴は桜。部位ごとに一番適した木材を選ぶことで、何十年、何百年と壊れないからくり人形ができるんですよ」。

「からくり人形は、精密な機械技術による“木製ロボット”だと言えます。これが江戸時代から作られてきたのは、すごいことですよね」と玉屋氏は続ける。

 

西洋技術を取り入れながら、日本独自の文化として発展

からくりにはおおまかに3つの分類があるそうだ。高級な玩具として公家や大名に愛されてきた「座敷からくり」のほか、尾張の祭りで多く見られる「山車からくり」、からくり人形を使った見世物興業の「芝居からくり」。

「特に、からくり文化の発展のきっかけとなったのが、江戸時代の芝居からくりです。全国各地で巡業公演をした『竹田からくり芝居』という一座が人気を博し、庶民にからくりの面白さが浸透しました。芝居からくりの技芸が形を変えて、大阪では文楽、江戸では歌舞伎、そして尾張では山車からくりへと進化していったんです」。

尾張でたくさんの山車からくりが生まれた背景には、尾張藩の七代藩主・徳川宗春の影響もあった。「江戸では吉宗が倹約令を出していたのに対して、宗春は開放政策として遊興や祭りを奨励しました。この頃から、豪華絢爛な山車やからくり人形が増えて、旧尾張藩領には今でも多くの山車からくりが保存されている、というわけです」。

「うちの初代が名古屋に移り住んだのも、宗春の時代です」と付け加える玉屋氏。京都のからくり人形師だった初代玉屋庄兵衛は、名古屋で山車の製作や指導の依頼があったことから、市内の玉屋町(現在の丸の内あたり)に住み始めた。その後、町名にちなんで玉屋庄兵衛と名乗るようになったという。

「名古屋の繁華に京がさめた」といわれるほど栄えた宗春治世。初代玉屋庄兵衛に限らず、さまざまな分野の職人が全国から流入したことが、ものづくり王国・愛知の礎にもなっている。

さらに、からくり人形の発展には、機械式時計の技術も大きく影響しているという。ヨーロッパで生まれた機械式時計を最初に日本へと持ち込んだのは、かの有名な宣教師、フランシスコ・ザビエルとされる。それから47年後、日本で初めて機械式時計を作ることに成功した人物は、ここ尾張にいた。

「国産時計の第一号を生み出したのは、尾張藩御用達の時計師だった、初代津田助左衛門です。徳川家康が朝鮮渡来の時計を修理するよう命じたところ、直すだけではなく、同じものを製作して献上したそうです。その後、一定の時間を刻む定時法の西洋式機械時計は、日本の当時の時刻制度であった不定時法を取り入れた『和時計』へと作り替えられていきました」。

少し意外なところだと、南蛮貿易によって伝来した「鉄砲」も、点火装置部分にからくりが使われており、大量生産されるようになった過程で科学・工学技術が向上し、からくりの発展にも寄与したそうだ。

 

愛知県のものづくり企業でも、からくりが活躍

時を経てなお、愛知県のものづくりにはからくりのDNAが引き継がれている。トヨタグループ創始者の豊田佐吉が生み出した「自動織機」も、糸を自動的に補充して糸が切れると停止する、からくりの仕組みによる発明品だ。世界のトヨタの歴史は、からくりから始まったのだ。

「材料が“木”から“鉄”に変わって、からくりの可能性は無限に広がりました」と玉屋氏。アイシン・エィ・ダブリュでは、茶運び人形からヒントを得て開発された「ドリームキャリー」という無動力搬送台車が使われている。茶運び人形が茶碗を置くと動き出すように、ドリームキャリーも台の上に製品を乗せるとバネの力で前進する。

 

からくりは、時代とともにまだ見ぬ姿へ

現在、玉屋氏は、地域の子ども向けのからくり教室から、海外での実演・講演まで、国内外でからくり文化の発信を続けている。「からくりには、人を驚かせ、楽しませる力がある。こうしたらもっと違う動きができる、もっと面白くなる、という私の追求が終わることはありません。まだまだ、からくりには夢がありますよ」と、熱意のこもった表情で語る。

玉屋氏の職人精神が好奇心で形づくられているように、各時代の先人たちも大衆を感動させたいという一心で知と技を磨き、創意工夫を重ねてきたのだろう。その蓄積が尾張のものづくりの土壌を育み、長い歳月をかけて文化・産業の根っことして成長してきたと言えよう。

九代玉屋庄兵衛氏が製作・修復した作品は、犬山市や半田市など県内各地の祭りの山車で活躍しているほか、愛・地球博記念館に足を運べば、万博でも展示されていた創作からくり「唐子指南車」が見られる。犬山市の「IMASEN 犬山からくりミュージアム」では、玉屋氏によるからくり人形の実演や製作公開も行われている。からくりの面白さを間近で体感したくなったら、ぜひ足を運んでみてほしい。

 

<参考文献>
・千田靖子『からくり人形師 玉屋庄兵衛伝 〜初代から九代まで』(1998年/中日出版社)
・九代玉屋庄兵衛後援会ウェブサイト
・はまなす団ウェブサイト

WRITER PROFILE

齊藤 美幸

名古屋在住。まちと文化が好きなライター。広告制作会社での勤務を経て、2020年からフリーランスとして活動中。まちの風景や歴史、地域をつくる人の物語などを伝えている。