PAGE TOP

facebook twitter instagram youtube
尾張名古屋で継承され続ける柳生新陰流の技と心

TEXT : 小林優太

2022.07.01 Fri

「柳生新陰流」という剣術の流派をご存知だろうか。
例えば、時代劇や映画、あるいは小説や漫画で、「柳生と名のついた登場人物がいたな」と思い出す人もいるのではないだろうか。日本を代表する武芸の流派のひとつであり、世界的にも広く知られている。武器を持たずして無手で、剣で向かってくる相手を制する「無刀取り」もこの流派を象徴する技として紹介されている。

そんな柳生新陰流は、実は名古屋と深い縁でつながり続けてきた。江戸と尾張で盛え、現代まで数百年の歴史を刻んできた柳生の技と教えとは。柳生新陰流兵法第二十二世宗家にして、尾張柳生家第十六代当主の柳生耕一厳信氏にお聞きしたお話も踏まえ、柳生新陰流の歴史と今を探った。

 

戦国、江戸にはじまる400年を超える歴史

柳生新陰流の歴史のはじまりは、およそ1500年頃のこと。今の群馬県に生まれた上泉伊勢守信綱は、「陰流」を学んで「新陰流」をおこし、自身の磨いた技を京で広めようとした。彼が流祖となり、そのもとで学んだのが柳生但馬守宗厳(のちの柳生石舟斎)。宗厳は信綱より新陰流の技を伝授され、その中で無刀取りの発明を促されるエピソードもあったという。信綱は宗厳を第二世として認め、1500年代半ばに「柳生新陰流」が誕生した。

その後、新陰流に興味を持った徳川家康公に、宗厳と五男・柳生宗矩が無刀取りを披露した。これを機に宗矩が徳川秀忠公、家光公の兵法師範になり、彼を開祖として「江戸柳生」の歴史が始まる。ちなみに、剣豪小説やドラマ、映画などにもよく登場する柳生十兵衛という人物は、宗矩の息子である。
江戸柳生が盛り上がる一方で、宗厳より新陰流の第三世を受け継いだのは、彼の孫・柳生兵庫助利厳だった。一子相伝の奥義を継ぐ者と認められた利厳は、1615年に尾張藩初代藩主・徳川義直公の兵法師範となる。こうして「尾張柳生」が生まれた。これ以降、柳生家の当主たちに加え、江戸の期間には義直公はじめ7人の藩主(ひとりは早世)が新陰流の宗家を継承することとなる。尾張柳生の歴史が尾張藩と密接な関係のもとに紡がれてきたことが分かるだろう。現在、尾張柳生の血統を継ぐ柳生耕一氏は、先述の通り第二十二代宗家にして、第十六代当主。尾張藩、名古屋を拠点に、400年以上にわたり、柳生の技が伝えられてきたのだ。


大正時代、柳生三五郎厳周自宅での集合写真

 

現代にも通じる三つの教え


「天地人転」と刻まれた刀の鍔

 

利厳は兵法書『始終不捨書』を書き残し、その内容が江戸から現代へと新陰流の奥義を伝えてきた。基本は口伝と稽古によって継承されてきたという教えはどのようなものなのだろう。その特徴は、「性自然」「転(まろばし)」「真実の人」の三つとされる。「天地人転」という言葉が刻まれた柳生新陰流の刀の鍔がある。ここに三つの特徴が表されており、これを体現するために心と技を磨き続ける。

柳生耕一氏にひとつずつご解説いただいた。まず「性自然」とは自然のはたらきに従った刀法のこと。腕力ではなく重力を使い、円を描くように刀を振り下ろす。円の真ん中には、自身の腹と背の中心の「ハセ」となる。刀と体をひとつにして自然な形をとる。余計なことを考えず雑念を払って刀を振るうのは決して容易ではない。
次に「転」とは、切合において状況に合わせた動きをすること。決まった戦術に縛られることなく、相手の動きを引き出した上で柔軟に応じる。戦国時代、相手を力や速さで制する「殺人刀(せつにんとう)」が主流であった中、相手をはたらかせて勝つ「活人剣(かつにんけん)」の考えを生み出したのが画期的であった。
最後に「真実の人」。これは、「仁義礼智信」といった人として大切な心得ある人にのみ奥義を教えても良いということ。技を磨く前に心を治めることを求められる。

雑念を払い自然のはたらきに沿って動く。特定のやり方に固執することなく柔軟な応じ方をする。心に備えるべきことをしっかりと治める。これら特徴は、剣を交える場だけでなく、暮らしの中においても大切とすべきことばかりだと感じる。

 

柳生新陰流の今と未来

甲冑を着て切合をする時代から、より身軽な服装で刀を交える時代を経て、日常で刀を持つことはない時代へ。その時々に求められるものに応じて、技の形も変わってきたという。これもまた「転」の考えに基づくこと。
現在は、名古屋市内で毎週定例の稽古を行い、柳生耕一氏の指導を直々に受けている。冒頭にも述べたように、日本を代表する流派として海外でも知られる新陰流。日本人に限らず、長年技を磨く外国人の弟子もいる。柳生ゆかりの地など各地で演武をする機会も。2022年正月には、名古屋城主催の城子屋にて新陰流の解説と演武の披露をいただいた。国内外からの講演依頼も後を絶たない。武芸に関わりのあり人だけでなく、多くの人に柳生新陰流の技、心得、歴史などを伝えている。


2022年1月、名古屋城本丸御殿前で演武を披露

 

そんな中、柳生新陰流兵法の名古屋市無形文化財指定を目指す動きがある。武芸、武術を文化財指定するための制度の検討も含めた議論がされているという話が、2022年3月の名古屋市会本会議でも取り上げられた。名古屋市内とりわけ中区には、柳生新陰流ゆかりの史跡もいくつもある。白林寺は尾張柳生家の菩提寺。同じく中区の清浄寺は柳生兵庫の屋敷があった場所。さらに、中区錦の下園公園周辺にもかつて柳生家の屋敷があった。白林寺、清浄寺に設置された史跡名称標札には、柳生新陰流との関係に関する説明が追加され、下園公園には2022年10月までに標札が新設される。


名古屋市中区スポーツセンターでの稽古

 

名古屋で育まれ世界に誇る武芸として、未来に向けて歴史を刻み続ける柳生新陰流。現代社会を生きる私たちも、心身を磨くための教訓を授けてもらえるのではないだろうか。演武や稽古の様子を目の当たりにすると、まさしく刀身一体の自然な動きの美しさに感銘を受ける。江戸時代から受け継がれてきた心得を知った上で、ぜひとも直に洗練された技に触れる機会を持ってみてほしい。

 

参考/
城子屋「尾張名古屋で磨かれ続ける柳生新陰流の技〜第二十二世宗家が語り、魅せる剣術文化の極意〜」資料(2022年1月10日、名古屋城冬まつり2021-2022にて開催)
柳生耕一厳信「負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心身術」ソフトバンク新書、2011年

WRITER PROFILE

優太 小林

2017年より「RACCO LABO」の屋号でフリーランスのコピーライターとして活動。 コピーライターの他に、大学講師、まちづくりコーディネーター、ラッコの魅力発信とグッズ開発に勤しむラッコ愛好家など、多彩な顔を持つパラレルワーカー。キャッチフレーズは「あま市と歴史とラッコを愛す」。