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狂言は
弱者にやさしいヒューマンドラマ

TEXT : 近藤マリコ

2022.04.11 Mon

やっとかめ文化祭のメインビジュアルは、狂言師の井上松次郎さんがモデルになって、笑いの神が名古屋に降臨、というイメージで撮影されている。名古屋のまちなかに佇んでいる、ただそれだけの絵なのに、なぜか微笑ましい気持ちになるのは、松次郎さんが醸し出す“可笑しさ”のオーラが画面に滲み出ているからだろう。では狂言における“可笑しさ”とは一体なんなのだろうか。社会的弱者が狂言の中でどう描かれているかといったテーマを元に、狂言がわたしたちに教えてくれることについて、井上松次郎さんにお話を伺った。

 

強者と弱者の立場が逆転する痛快ドラマ

狂言に登場する人物は、ある程度パターンが決まっていて、主人と家来だったり、夫と妻だったりする。そして普段なら上下関係や強弱関係にある人間の立場が逆転し、下の者が上の者を、あるいは弱い者が強い者を、物語の中で“やっつける”。観ているわたしたちは、そのシーンを面白がり、そして大いに笑う。
最近のテレビで「倍返しだ!」という台詞でヒットしたドラマを見ていたが、あれはドラマという名の狂言ではないかとわたしは思った。賢くはあるが社会的には決して強くない主人公が困難を乗り越えながら、ずるい輩を“やっつける”からだ。あのドラマで胸のすくような思いを抱いた人も多かったと思う。
「狂言には対比する2つの立場の人物が登場します。権力者と庶民、男と女、老いた者と若い者など。このほか、人間と動物、人間と植物を対比させた演目もあります。この2つの人物が、立場を逆転されて、社会的弱者が強い者をからかったりやっつけたりします。室町から江戸にかけて抑圧されていた庶民は、狂言を観ていて、さぞ痛快だったのではないでしょうか」と井上松次郎さんが教えてくれた。

 

やっとかめ文化祭 狂言「茶壷」〔井上松次郎・鹿島俊裕〕

 

■オアシス能  栄オアシス21 特設ステージ
狂言「墨塗」 〔井上菊次郎(祐一)・井上松次郎(靖浩)・佐藤  融  ほか〕

 

 

狂言のルーツは
“奉納”であり、儀式のひとつ

しかしながら、狂言はその土地の殿様に狂言師が重用されて演じられていたので、いわば「権力者」が狂言のパトロンでありスポンサーであったはず。それならば、自分と同じ立場の「社会的強者」がやっつけられるお話を、はたして権力者が観て楽しんでいたのだろうか?という疑問がわいてくる。井上さんに尋ねてみると、狂言のルーツに話が遡っていった。
「狂言を含む能楽はもともと神様に奉納するものでした。寺社に舞台をつくり、そこで行われる儀式のひとつとして、狂言が演じられていました。それが時代とともに移り変わり、殿様が狂言に興味を持ち始めて、寺社以外でも演じられるようになります。狂言が自然に娯楽性を帯びてきて、儀式という側面が薄くなり、シンプルに楽しめるようになっていったのだと思います」
と、狂言の歴史をさらっと教えていただいたところで納得がいった。ここからはわたしの想像である。たとえ殿様であっても将軍には敵わないし、幕府から無理難題を突きつけられることがあったはず。将軍にだって、頭の上がらない親や奥さんがいただろうし、言うことを聞いてくれない坊主や家来もいたのではないか。人間誰しも“ちょっとやっつけてほしい”と思う人が片手に数えるくらいはいるものだ。そんな人間の本心を垣間見るような思いで、狂言を楽しんでいたのだとしたら、これほど健康的なストレス解消は他になかったのではないかとさえ思える。

 

■広島(福山) 光信寺薪能 狂言「魚説法」〔井上蒼大・鹿島俊裕〕

 

今も昔も
人は同じことで悩み
同じことで喜びをわかちあう

狂言にはある程度のパターンがあって登場人物が決まっている、とは前述した通り。女性も数多く登場するが、そこに美しい淑女という存在はいないのだそうだ。現代劇やドラマ、映画などに美しい女性のヒロインが登場するというのが不文律となっていることから考えると、そこは現代のものと大きな違いである。狂言では昔からすでにジェンダー平等が成立していたのか。「女性も笑いの対象になります。目が見えない、口がきけないといった障碍者に焦点を充てた演目もあります。コンプランアンスを重んじる現代では、なかなか上演する事自体が難しくなっていますので残念なのですが」と井上さん。
さらに「狂言には教訓としての役割もあったように思います。そもそも始まりは神様への奉納だったと申しましたが、登場人物が基はお坊さんと小坊主であった設定が、次第に主人と家来という関係性へと変わっていった演目もあります。いずれにしても、弱者目線で世の中を見た時の、痛快な結末は、気持ちの良いものだったでしょう。身分の高い人にとっては、身につまされる部分もあったと思いますが、それが反面教師となったかもしれません」と井上さんは付け加えて話してくれた。
何百年も前の物語が、今のわたしたちの心にも響いて、泣いたり笑ったり、じーんときたりするのは、今も昔も人間は変わらず、同じことで悩み、苦しみ、そして同じことで喜びを感じてそれを仲間とともにわかちあいたいと願うからである。社会が成熟しても、人間の感情や感覚は何百年も前と同じなのだ。「上から目線」ではなく「下から目線」で世の中を眺めることの面白みを、狂言を観ることで観察していけたなら“人間は一人で生きていくことはできない”という永遠の命題を実感できるのではないだろうか。

 


■狂言「引括」 〔佐藤友彦・井上菊次郎(祐一)・井上松次郎(靖浩)ほか〕

WRITER PROFILE

近藤 マリコ

やっとかめ文化祭ディレクター、コピーライター、プランナー、コラムニスト。
得意分野は、日本の伝統工芸・着物・歌舞伎や日舞などの伝統芸能、工芸・建築・食など職人の世界観、現代アートや芸術全般、食事やワインなど食文化、スローライフなど生活文化やライフスタイル全般、フランスを中心としたヨーロッパの生活文化、日仏文化比較、西ヨーロッパ紀行など。飲食店プロデュース、食に関する商品やイベントのプロデュース、和洋の文化をコラボさせる企画なども手掛ける。