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真っ赤な顔の福神。江戸・明治から現代に「猩々」をつなぐ職人たちの今昔。

TEXT : 齊藤 美幸

2021.09.21

猩々(しょうじょう)。それは、古くに中国から伝わった想像上の動物。体は赤い毛に覆われ、顔は人間に似ている。人語を話し、酒を好む。この不思議な動物が、名古屋南部では福神として祭りに登場する。猩々をかたどった大人形に人が入って、祭礼行列の最先頭または最後尾を歩いたり、子どもたちを追い回したり。2メートルを超える背の高さと、ニヤリと笑ったような顔が少し怖い。


祭りの試楽祭(初日)には布団地の着物を着て、本楽祭(2日目)には裃袴の正装に着替える。これは、試楽祭には子どもたちを追って走るが、本楽祭には行列の先導役に徹し、より“神様”らしく扱われるためだという。


猩々は子どもたちを追いかけ、お尻を叩く。猩々に叩かれると、一年病気やけがをしないといわれている。「無病息災」「縁起が良い」として、祭りでは大人も追いかけられるのを楽しんでいる。

現在のような大人形の猩々は、江戸中期には存在し、江戸後期から旧東海道・知多街道沿いで広まったという。なかでも南区では、明治から昭和にかけて、腕の良い職人が数多くの猩々を製作した。そして現在、笠寺地域で猩々作りをしているのが、笠寺猩々保存会の会長である久野充浩さんだ。

子どもの頃から猩々に親しんできた久野さんは、新しい猩々の製作だけでなく、老朽化した猩々の修理も行う。技法を記した史料が残されていなかったため、一から作り方を研究し、習得したというから驚きだ。


お囃子車と猩々。左2体の猩々は裃袴を着ている。(写真提供:久野さん)

 

想像上の動物が、いつのまにか祭りに登場する神様に。

久野さん宅を訪ねると、作業部屋には赤い顔がずらりと並ぶ。これらは久野さんが製作・修理をした猩々や、地域の職人の遺作で、よく見ると顔のつくりや表情が少しずつ異なる。人がかぶっていない状態とはいえ、これだけの数が集まっていると迫力がある。

「最近は感染防止のために祭りの中止が相次いでいるので、猩々の出番がなく寂しい」と話す久野さん。日の目を見る時を心待ちに、黙々と作業を続けている。この日は、保存会メンバーの早川真さんとともに話を聞かせてくれた。


写真左:久野 充浩さん、右:早川 真さん

久野さん:「猩々は今や地域の祭りに欠かせない存在ですが、いつから神様として受け入れられるようになったのか、はっきりしていなくて。ただ、能楽の影響が大きいとはいわれていますね」

猩々は想像上の動物だが、辞書を引いてみると「オランウータンの別名」とも記述されている。しかし、中国には野生のオランウータンは存在していない。これは後から結びつけられた言葉のようだ。日本でも想像上の動物として伝来していたが、室町後期になると能の演目に猩々が取り入れられた。

早川さん:「能の中では、“親孝行息子にいくら汲んでも尽きることがない酒壷を与える福神”として猩々が描かれているんです。このイメージが広がって、明るいキャラクター、陽気な酒の神様として定着したみたいですね」

久野さん:「江戸時代には、山車のからくり人形などいろいろな場面で祭りに出ています。今のようなハリボテの大人形が現れた時期は、正確にはわからず…猿猴庵(えんこうあん)が描いたのが、いちばん古いですね」

当時の文献が収録された図録を開く。名古屋の画家・高力猿猴庵(本名:高力種信)が安永7(1778)年に描いた『鳴海祭礼図』では、鳴海八幡宮の祭礼で猩々が練り歩く様子が見られる。

早川さん:「大人形がはっきり描かれている、最初の文献ですね。これを根拠に、鳴海は猩々大人形の発祥地といわれているんです。とはいえ、絵に描かれたのがたまたま鳴海の祭りだったとしたら、名古屋南部の他のエリアでも同時期に大人形が存在した可能性もありますね」

 

3人の名工、そして現代へ。脈々と続く猩々作り。

笠寺に保存されているなかでも、最も古い猩々は大正3(1914)年に作られたもの。これは、久納良助という職人による作だ。

南区には、江戸〜明治生まれの名工が3人いた。名前がわかっている職人として最も古いのが、江戸後期(嘉永年間)生まれの久納良助。そして、良助の息子である、明治25年生まれの久納良右衛門。久納家から猩々の製作技法を学んだ、明治30年生まれの荒川関三郎。


見やすいようにと出してくれた2体の猩々。右側は、久野さんが荒川関三郎の作風を再現した渾身の作。荒川関三郎は猩々職人でありながら、熱田神楽の師匠としても有名な人物である。

久野さん:「久納良助の猩々は1体しか残っていないけども、良右衛門の猩々はたくさん見つかっているんですよ。良右衛門は、同じ型を使い回して製作するスタイルでして。製作途中のままの遺作も、うちに保存してあります」


同じ型から作られ、型から抜かれた状態の顔。左の猩々のほうが新しく見えるのは、久野さんの修理によって和紙を貼り替えられているため。右の猩々には明治時代の台帳が貼られている。

久野さん:「当時は、長男が生まれた家庭では子ども用の猩々を良右衛門に作ってもらって、祭りの日に玄関先に飾る風習があったみたいです。それで、今でもたまに、個人宅の押入れなんかから猩々が出てくることがあるんですよ」


子ども用の古い猩々。色が剥げた見た目から、長く保管されていたことがわかる。

久野さんが初めて修理をしたのは、同じ笠寺生まれの荒川関三郎が作った猩々だった。

久野さん:「町内にある猩々があまりにもぼろぼろだったので、修理してみようと思ったんです。僕自身も幼い頃は、猩々に見立てた段ボールの被り物を作って遊んだり、祭りでは猩々に追いかけられたりして過ごしていたもの。いつか自分の猩々を作ってみたいという気持ちが、どこかにあったのかもしれませんね。大人になって自分の子どもができてから家族で祭りに行ったんだけども、そこで老朽化した猩々を見て。なんとか直せないだろうかと考えました」


幼少期の久野さんと猩々の写真。たくさんの子どもたちのうち、どれが久野さんかはご本人も「思い出せない」という古い記憶。

子どもの頃の記憶を頼りに、猩々の作り方を研究し始めた久野さん。一閑張りと呼ばれる伝統的な技法にこだわり、平成9(1997)年頃から猩々の修理・製作に励んできた。平成17(2005)年には、愛・地球博に猩々を登場させたことをきっかけに、笠寺猩々保存会を結成。祭りやイベントで活動するだけでなく、子どもたちに猩々作りを体験してもらう機会も設けている。

 

過去の先人を敬い、100年先の未来にも残るものを。

猩々大人形は地域によって多少の違いがあるものの、基本構造はほぼ共通している。紙張り子でできた頭部、格子状に竹を組んだ胴体、その上に着せる衣服。このうち、製作が最も大変で時間がかかるのが頭部だ。久野さんに作り方を聞いた。

久野さん:「まずは型を作るところから。昔はこの辺りに瓦の窯元が多かったので、瓦用の粘土で作っていたみたいですね。今は常滑焼と同じ赤土を使用しています。顔の前半分・後ろ半分の型をそれぞれ起こしたら、その上に和紙を何十回と貼り重ねていく。耐久性の高い手漉きの美濃和紙を使っているぶん、これが高級で…」

久野さん:「十分な厚みが出たら型から外して乾燥。前後をくっつけたら、銅線で固定します。ちなみに、昔は麻を使って縫っていたそうです。次に、接合部にも和紙を貼って一体化させて、耳は手捻りで取り付けます」

笑っているのにどこか怖い、独特の表情も重要だ。

久野さん:「顔全体は鮮やかな朱色にするため、柿渋を混ぜたベンガラを塗っています。柿渋には防虫・防水効果があるといわれているので、経年変化に強いんです」

久野さん:「目と口の白い部分は、ニカワを混ぜた白胡粉。黒い部分は墨。目を描くときはいちばん緊張しますよ。紙の凹凸があるので、ちょっと手を滑らせたら失敗してしまうんです」


染める前の麻。この日は、まだ綺麗な麻から骨董品のように年季の入った麻まで揃っていた。

久野さん:「髪は、ベンガラで染めた麻。水に浸して、乾燥して…という作業を繰り返すことで麻として使える状態にして、やっと染められるので、手間がかかりますね」


少しうつむいたように、下向きに角度のついた目。近づいて見上げると目が合ったように感じる。これも子どもたちを怖がらせる工夫だ。

久野さんが作る猩々の顔は、オリジナルではなく過去の名工たちの作風を再現したもの。

久野さん:「実在した猩々の顔を忠実に再現するのが、僕のポリシーです。自分の個性を出すと、表情が変わってしまう。先人たちの志を受け継いで、猩々を作っていきたいです」

祭りで人が入って歩いたり走ったりするため、猩々大人形は消耗品ともいえる。しかし、「よっぽどひどく壊さなければ、100年はもつように製作・修理している」と久野さんは自信を見せる。保存会には、若手メンバーも増えている。いつでも引き継げるようにと、猩々作りに関する資料もまとめているという。古来からの伝統技法を残していきたい。そして、猩々の面白さ、祭りの楽しさを子どもたちに知ってもらいたい。そんな純粋な想いで、久野さんは猩々に向き合い続けているのだろう。

久野さん:「猩々が大好きだからか、僕、よく猩々に似ているって言われるんです。お酒を飲むと顔が真っ赤になるところもそっくりかも?」

そう笑う久野さんと猩々のツーショットを最後に一枚。

参考文献/
『図録 大人形への祈り : 息災と豊穣を願う 特別展』1997年(名古屋市博物館)
『名古屋市博物館 研究紀要 第21巻』1998年(名古屋市博物館)

齊藤 美幸

WRITER PROFILE

齊藤 美幸

まちと文化が好きなライター。広告制作会社での勤務を経て、2020年からフリーランスとして活動中。“ローカルの可能性”に興味があり、まちの風景や歴史、地域をつくる人の物語などを伝えている。人生最後の晩餐に食べたいものは、味仙の台湾ラーメン。