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名古屋城をつくった木のルーツを辿って

TEXT : 小林優太

2023.12.06 Wed

長野県木曽郡と岐阜県中津川市の山に「名古屋市民の森」という場所がある。名古屋城本丸御殿の復元をきっかけに、2008年から名古屋の人たちが植樹・育樹に関わってきた。なぜこのふたつの地域で、そのような取り組みが行われているのか。その裏側には、木を通して名古屋とつながってきた長い歴史がある。

 

名古屋城の築城と木曽・裏木曽の木

長野県木曽郡から岐阜県中津川市にまたがるエリアは、それぞれ「木曽」「裏木曽」と呼ばれ、古くから良質な木材の産地として知られてきた。代表的な木のひとつである「木曽ヒノキ」は、木曽・裏木曽の寒い気候によって、目が詰まり、油分が多くしなりに強いものに育つという。木曽ヒノキをはじめ、この地域の木々は日本の建築を支え続けてきた。20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮でも700年前から木曽ヒノキが使われている。数々の歴史的に価値の高い建物が、木曽・裏木曽の木でつくられた。名古屋城もそのひとつ。

裏木曽の木の年輪。粘り気のある木が育つという

 

1609年、徳川家康より名古屋城築城の命が出され、全国の大名が動員される。天守や御殿を建てるためには、膨大な資材が要る。木曽ヒノキはその大部分を担った。木曽・裏木曽の山で切られて丸太になった木は、水の流れを使って名古屋へ運ばれた。山奥から木曽川をつたって海へ。現在の熱田区白鳥のあたりには木材を管理する場所があったという。さらに、熱田から名古屋城まで木やさまざまな物資の運搬のためにつくられたのが、今も名古屋のシンボルのひとつである堀川。戦国大名・福島正則が工事の指揮をとり、人口の運河が出来上がる。堀川沿いには材木問屋が軒を連ね、その名残は今も残っている。水運の発達は、その後の城下町の発展にも大いに寄与した。木曽・裏木曽の木材を使って天守や御殿が完成し、城下町も形成されていく。江戸時代の名古屋の城とまちはこうしてつくられた。この築城は、現代の名古屋の産業形成にも影響を与えたとされる。建築に関わった腕の立つ職人たちは、優れた加工技術によって提灯や扇子などの工芸品も生み出した。その技が継承され続け、名古屋が誇るものづくりの礎となったのだ。

 

尾張藩による森林資源の管理

木を使うばかりではなく、守り育てる施策もとられた。江戸時代初期は、日本全国で築城が続いた時期。各地から木曽・裏木曽の木が求められ、このままでは森林資源が枯渇してしまうのではないかと懸念されるように。当時、これらの地域の山と森を管理していたのは尾張藩だった。尾張藩は、1655年から林政改革を実行。1730年には、裏木曽に「山守(やまもり)」という役職をおき、現地で山と森を適切に管理し、守る役目を任せた。この山守となったのは、裏木曽の加子母村の庄屋だった内木彦七。1872年まで、実に142年にわたって、内木家が山守を担った。岐阜県中津川市には、内木家の20代目。内木哲朗さんが運営する「山守資料館」がある。「内木家文書」と呼ばれる当時の実態が記された古文書からは、名古屋城築城時に実に7割の木材がこの地域から送り出されたことなどが判明した。当時の歴史を物語る貴重な資料群だ。

山守による管理がなされ、育林活動も行われたおかげで、山には再び森林資源が蓄えられていった。木は、何十年、何百年の長い時間をかけて育つもの。質の良い木が育つ環境づくりには、人の手も不可欠。江戸時代から世代を超えて、先人たちの守ってきた山と森の恵みを受け取ってきた。木を使い、植えて、育てて、また活かす。このサイクルが、現代も引き継がれている。
私たちが森から受けている恩恵は木材だけではない。ゆっくりどっしりと根を張った木は、災害に強い地盤をつくる。あるいは、「おいしい」といわれる名古屋の水。木曽川が運んでくる水は、もとを辿れば木曽・裏木曽の山を流れてきたもの。実は私たちの暮らしも、目に見えないところで遠くの山とつながっている。

 

受け継がれてきた森を守る思いと行動

冒頭の話にもどると、このように歴史的にも長く深いつながりのある木曽・裏木曽の山に「名古屋市民の森」がある。2006年8月、裏木曽の山の奥深くの「木曽ヒノキ備林(旧神宮備林)」で、樹齢300年の木曽ヒノキが切り倒された。名古屋城本丸御殿の復元に使用された木だ。裏木曽の備林には、樹齢数百年の立派な木々が並び立つ。ここで育った木は、伊勢神宮の式年遷宮の他、東大寺や法隆寺といった歴史的建造物の修復などに使われてきた。「三ツ緒伐り(みつおぎり)」という、斧を使った昔ながら方法で1時間かけて切り倒された大木。そんな貴重な木が、本丸御殿の復元に用いられたのだ。

2006年に切り倒された樹齢300年の大木の切り株(2020年撮影)

 

こうした出来事をきっかけに始まったのが「名古屋市民の森づくり事業」。10年間で1万本の木を植え、育てることを目標とした。2008年から毎年バスツアーが組まれ、多くの市民が参加。1万本を植え終えた後も、取り組みは続いている。新型コロナウイルスの影響で実施できない期間もありつつ、2022年には3年ぶりのツアーを開催。みんなで大切な森を守り、未来へ文化を伝えていく。江戸時代からの思いが脈々と受け継がれている。木曽・裏木曽とともに育んできた木の文化の片鱗を、今の名古屋のまちなみ、暮らし、産業など、あちこちにうかがうことができるのではないだろうか。

岐阜県中津川市の「名古屋市民の森」の案内板

 

(写真:今井隆之)

WRITER PROFILE

優太 小林

2017年より「RACCO LABO」の屋号でフリーランスのコピーライターとして活動。 コピーライターの他に、大学講師、まちづくりコーディネーター、ラッコの魅力発信とグッズ開発に勤しむラッコ愛好家など、多彩な顔を持つパラレルワーカー。キャッチフレーズは「あま市と歴史とラッコを愛す」。