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名古屋のハレは、空にまかれた駄菓子とともに ~名古屋「嫁入り菓子」物語

TEXT : 神野 裕美

2026.05.01 Fri

タイトル写真:明道町の菓子問屋「桜井商店」のご夫妻は、2026年で結婚50年目。お二人から駄菓子を買うのも、なんだか縁起がいい!

名古屋市西区。地下鉄鶴舞線・浅間町駅から歩いて10分ほどの場所に、現在は町名こそ消えたものの、バス停や交差点に「明道町」の名を残す一帯がある。交通量の多い幹線道路の脇から伸びる通りの入口には、「嫁入り」「寿」と記された看板が。積み上げられた駄菓子の箱が、ここが日本有数の駄菓子問屋街であることを物語っている。周辺にはいまも多くの菓子メーカーが集まり、この新道・明道町界隈を含む名古屋市西区は、菓子のまちとして知られている。

明道町のバス停。隣にはは江川線、その上には名古屋高速が走る。

 

通りの入口にある、昭和25年(1950年)創業、菓子問屋「桜井商店」さん。

 

名古屋城とともに育まれた、菓子のまち

この菓子のまちの始まりは、慶長15年(1610年)、名古屋城築城の頃にまでさかのぼる。諸説あるが、城の建設に従事する多くの人々を相手に食べ物を提供する店が現れ、新道・明道町界隈では菓子が売られるようになったという。また、枇杷島市場に集まる八百屋を相手に菓子を売ったことがきっかけになったとも伝えられている。

 

さらに、この地には中山道へ通じる「美濃路」が走っていた。東海道の宮宿(熱田宿)を起点に、名古屋、清須、墨俣、大垣を経て中山道の垂井宿へ至る全長約58キロの街道である。将軍の上洛行列から朝鮮通信使、象、お茶壺、庶民まで、さまざまな人馬が行き交う脇街道としてにぎわった。こうした旅人を相手に、尾張藩の下級武士たちが副業として煎餅や飴菓子を作り始めたという話も残る。名古屋城を中心とした土地の営みと、街道がもたらす往来のにぎわい。その二つが重なる場所に、駄菓子のまちの土壌が育まれていったのだろう。

 

特に菓子問屋が大きく発展したのは、大正時代。関東大震災によって大きな打撃を受けた東京へ、名古屋から多くの菓子を供給したことで、全国屈指の菓子問屋街へと成長した。

桜井商店さんの店内外には、さまざまな駄菓子の箱が山積みに。大人買いできるのが楽しい。

 

江戸時代の儀礼に、菓子まきの起源をたどる

菓子問屋の看板に残る「嫁入り菓子」の文字を見て、名古屋に縁のある人なら思い浮かべるものがあるだろう。婚礼の日、花嫁が実家を出るとき、あるいは婚家に入るときに、親族が二階や屋根から近所へ向けて大量の駄菓子をまく、そんな昔ながらの風習である。名古屋を中心とした東海地方に根づいてきたこの「菓子まき」は、明道町の問屋街が長年支えてきた文化でもあった。

 

この風習の起源をたどると、江戸時代の婚礼儀礼に行きあたる。『名古屋市史 風俗編』には、元文4年(1739年)の条令として、町屋の婚礼に際して石を投げたり戸板を打ち破ったりする妨害行為の禁止が記載されている。子どもの仕業であっても大人が制止すべきこと、違反者は処罰することまで記されており、こうした行為が以前から繰り返されていたことがうかがえる。

 

婚礼の際、花嫁行列を儀礼的に妨げる風習は、当時、全国各地にあったようだ。若い娘が村を出ていくことへの抵抗や冷やかしが目的だったらしい。加賀藩の資料には、万治3年(1660年)に婚礼の際に礫(つぶて)を打った若者を捕らえたという記録がある。また、江戸幕府の法令集『御触書寛保集成』にも、享保9年(1724年)9月の触書として、「嫁入り行列に向けて石を投げる行為を厳禁する」という内容が見える。こうした記録からは、江戸時代初期には婚礼をめぐる妨害の風習が各地に広がっており、やがて禁令が出されるほどであったことが推察される。

ねずみを擬人化して婚礼の次第を描いた、子ども向けの絵入り読物『赤本』。「今夜は飲んだり、もらったりだ」と、おしゃべりしながら進む花嫁行列。/『鼠よめ入 2巻』,[鶴屋喜右衛門],[江戸中期]. 国立国会図書館デジタルコレクションより

 

一方で、この儀礼的な妨害に対し、花嫁を通してもらうために菓子や酒肴を振る舞ったことが、嫁入り菓子の起こりになったとも伝えられている。そうした伝承を踏まえると、菓子まきの原型は江戸時代にまでさかのぼる可能性があり、嫁入り菓子は長い時間をかけて受け継がれてきた文化と言える。

 

とりわけ東海地方、愛知・岐阜・三重では、菓子まきの文化が土地に深く根づいていた。名古屋の嫁入りといえば「菓子まき」を思い浮かべる人が多いのも、その定着ぶりを物語っている。普段は堅実でも、祝い事となれば派手に振る舞う。そんな名古屋人気質も、この風習の背景にあったのかもしれない。

 

「嫁をもらうなら名古屋から」「名古屋へは嫁に出すな」「娘三人持てば屋根棟落ちる」。そんな古い言い伝えからわかるように、名古屋の人は嫁入り支度にお金をかけてきた。豪勢な嫁入り道具を整え、紅白幕を張った「嫁入りトラック」が街を走る。その婚礼風景とともに、豪快な菓子まきもまた、この地に息づいてきたのである。花嫁に出ていってほしくないという別れを惜しむ気持ちと、門出を祝う気持ちが入り混じった荒々しいしきたりは、時を経て、幸せを地域に分かち合う祝祭「菓子まき」へと姿を変えていった。

 

嫁入り菓子は、喜びを詰め合わせた縁起もの

昭和30年代。戦後復興が一段落し、婚礼が盛んになった時代に、明道町の菓子問屋も最盛期を迎えた。昭和25年(1950年)に菓子卸問屋として創業した桜井商店の店主ご夫妻は、当時をこう振り返る。

「菓子まきが真っ盛りだったのは、昭和30年代頃からでしょうか。花嫁が実家を出るときや嫁ぎ先に着いたときに、二階や屋根からお菓子をまいていました。数の多い家は櫓を組んでまいたんですよ。昔はむき出しのお菓子を一斗缶に入れて、親戚や近所の方が『嫁入りよ〜』と掛け声をかけながらまいていました。だんだん個包装のものが出てきて、時代とともに袋詰めの形になり、手渡されるようになりました」

昭和52年(1977年)、奥さんが「桜井商店」へお嫁入りしたときの菓子まき。ご近所さんが集まって菓子に手を伸ばしている。

 

菓子まきの規模は、現在の感覚では想像しにくいほど大きかった。「当時は10万、20万は普通で、多い人だと50万円ぐらいかける人もいて、盛大でしたね」。桜井商店では、昭和40〜50年代には、1日400〜500個の嫁入り菓子を作っていたという。あるときは70万円分の嫁入り菓子をワンボックスカー2台にぎっしり積み込み、三重県まで配達したこともあったそうだ。「ご近所の人が“お菓子を拾って家に置いてから戻ってきたけど、まだまいてるのかね”と笑っていたほど、まく菓子が多くてね」と、当時を振り返る。「婚礼が決まると、昔はその家の親御さんが口コミや紹介で問屋を訪ねてきて、注文していったものです。月曜から土曜まで注文を受け付けて、日曜に各家に配達する忙しい時代でした」

 

嫁入り菓子の詰め合わせには、縁起を担いだ定番がある。「よろこんぶ(昆布)」「おめでたい(鯛)」「腰が曲がるまで夫婦円満(えび)」「長く幸せが続く(寿留女)」など、二人の門出にふさわしい菓子が選ばれる。しかも、数は「㐂(よろこび)」にちなんだ7点、あるいは「末広がり」の8点にするなど、細やかな験担ぎも息づいている。信頼できる問屋があり、多種多様な菓子を一か所で揃えられる明道町は、こうした祝祭の需要に応えるのにふさわしい場所だった。

菓子問屋へお嫁に来て50年。たくさんのお嫁さんをお菓子とともに送りだしてきた。

 

菓子問屋に息づく、幸せのおすそ分け文化

戦後、暮らしと街が復興し、人々が甘いものを楽しめるようになる中で、多くの菓子問屋が創業した。昭和23年(1948年)には「中京菓子玩具卸市場」、昭和26年(1951年)には「中央菓子卸市場」も開設され、地域は大いに賑わった。「昔は新道通りという道が国道の方まで続いていて、そこに飴屋さんやビスケット屋さん、ラムネ屋さんなど、たくさんの製造屋さんも並んでいました」と、桜井商店のご主人。しかし、それから半世紀。平成12年(2000年)に中京菓子玩具卸市場が閉鎖され、問屋の数も減っていった。令和6年(2024年)には、ついに中央菓子卸市場も幕を閉じた。「最盛期は問屋が200〜300軒ありましたが、いまは10数軒になりました。それでも新道、かつての明道町一帯は、お菓子の問屋街として日本一の規模なんですよ」

このガムも、あのラムネも、実は名古屋市西区生まれ。今も西区には駄菓子のメーカーが多い。

 

時代とともに、結婚式場での挙式が主流になると、花嫁が自宅で支度を整えることも少なくなり、自宅での菓子まきもほとんど見られなくなった。それでも、嫁入り菓子の文化が完全に消えたわけではない。いまも結婚披露宴の演出として「ミニまき」を行うカップルはおり、実際に菓子をまくのではなく、手みやげとして配る人も少なくない。「注文はお任せが多いですね。このお菓子を入れたい、という相談に乗ることもありますよ。いい風習だから、ずっと続いてほしいですね」

桜井商店さんで買える嫁入り菓子。大きな袋に縁起の良いお菓子が詰め合わされている。

 

「菓子問屋の数は減りましたが、駄菓子の文化は、なくなることはないでしょうね。だって、みんな好きですもん。この名古屋らしい文化がなくなるのも、もったいないしね」。そう話す桜井商店の奥さんの言葉どおり、菓子問屋の数は減っても、駄菓子を配る文化そのものは現代も息づいている。イベントの景品として、お客様へのちょっとした手みやげとして、企業や商店、町内会が問屋を活用する。多彩な種類がそろい、卸値で手に入る駄菓子を求めて、ふらりと問屋街を訪ねる個人客も多い。よりどりみどりの商品を前に、子どもたちは「おもしろい!」と目を輝かせ、大人たちは「懐かしい!」と足を止める。世代を超えて人を笑顔にする、それもまた駄菓子の力なのだろう。

 

明道町の菓子の歴史は長い。城づくりの担い手たちに親しまれ、旅人の心を満たし、人生の門出を祝う婚礼の日には、空高くまかれた。誰かの門出が、地域みんなの祝い事でもあった時代。その祝い事に、どこか懐かしくほっとする駄菓子が彩りを添えてきた。嫁入りトラックが街を走った時代は遠くなったが、菓子問屋の看板に残る「嫁入り」の文字は、この街が名古屋のハレの文化を支えてきたことを静かに語っている。空に舞った駄菓子の軌跡は思い出になっても、駄菓子を通して喜びや笑顔を分かち合う心は、これからも名古屋の日常に溶け込み続けていくのだろう。

 

参考文献/
エキ・シロウェブサイト
中日新聞ウェブサイト
国立国会図書館デジタルコレクション(『新修名古屋市史』『名古屋市史』『御触書寛保集成』『稿本金沢市史』)

 

 

WRITER PROFILE

神野 裕美

1998年よりフリーのコピーライターとして活動。2010年、クリエイティブディレクターとともに株式会社SOZOS(ソーゾーヅ)設立。新聞、ポスター、パンフレット、Webといった各種コミュニケーションツールの企画立案・制作、ロゴ制作、ネーミングなどを手掛けている。最近はまちづくり支援の仕事も多く、なごやのまちを盛り上げるべく、多角的な視点からなごやの魅力を再発掘中。インフォグラフィックでなごやめしの紹介も。
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