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名古屋の交通の結節点・金山を歩いて歴史の変遷をたどる

TEXT : イトウ ユキコ

2025.10.31 Fri

2023年・2024年度のやっとかめ文化祭DOORSでは郷土愛好家・熱田三六さんのガイドで「金山の歴史と変遷」をテーマにしたまち歩きプログラムを開催した。JR東海道線・中央本線、名鉄、地下鉄名城線・名港線が乗り入れている利便性の高いターミナル駅・金山総合駅があり、繁華街としてにぎわう金山エリアを歴史の側面からたどっていくという内容だ。

歴史に着目してまちを歩いてみると、名古屋城下町と熱田の交通の結節点になっていた金山エリアにはしっかりと古の人々の足跡が残されていることが見えてくる。いまも昔も人の行き交う金山の変遷に目を向け、改めて金山駅の周辺を歩いてみた。

 

金山の地名のルーツ


金山駅南口から歩いて3分ほどの路地に静かに佇む金山神社は「金山」という地名の由来になったとされる、由緒ある神社だ。ここには、鉱山・金属を守護する金山彦命(かなやまひこのみこと)という神様が祀られている。

奈良時代に熱田神宮の鍛冶修理職をしていた尾崎善光が、自身の屋敷の敷地内に神社を勧請したことが金山神社の始まりだという。古くは現在の金山駅の南側にまで熱田神宮の神域が広がり、この近辺で多くの鍛冶職人が集まってものづくりをしていたのだそうだ。


2023年・2024年にやっとかめ文化祭DOORSで金山のまち歩きをした11月8日は、金山神社の例祭「ふいご祭り」の日。火を扱う鍛冶職人や鋳物師にとってなくてはならない仕事道具のふいごを清め、感謝の気持ちを込めて安全を祈願する伝統的なお祭りだ。日頃は静かな金山神社に金属・鋼鉄業界の関係者や近所の方々が集まってにぎわい、ふいご祭り限定の「ふいご餅」も売られていた。11月8日に金山神社を訪れると、金山のルーツの一端を知ることができる。

 

金山に残る江戸時代の風景


金山神社を出て、西に歩くとまもなく伏見通(国道19号)が見えてくる。この道は江戸時代に美濃路として発展し、熱田から美濃国へとつながる街道だった。「新尾頭」交差点のすぐ近くには「熱田神宮第一神門址」の石碑が建ち、熱田神宮から北に約2kmのこの場所までが神領であったことを示している。

熱田神宮第一神門について調べてみると、江戸時代の尾張藩の名所を描いた『尾張名所図会』(天保年間~明治初期に刊行)にこの場所の風景を見つけることができた。


尾張名所図会「一の鳥居 寒中大宮夜参りの図」 出典:『尾張名所圖會 前編三 』p.24-25より引用(名古屋都市センター蔵)

 

『尾張名所図会』には、熱田神宮第一神門(当時「一の鳥居」と呼ばれていた)の説明として「二鳥居の北、尾頭町にあり高さ三丈五尺、柱囲一丈、檜造丹塗なり」とあり、10mを超える巨大な鳥居が建っていたことが記されている。

「一の鳥居 寒中大宮夜参りの図」には、紙面から見切れるほどの巨大な鳥居のそばを多くの人が行き交う様子が描かれ、行灯を持っている人や駕籠を持った町人風の人、中にはお団子を片手に熱田神宮へ向かっている人の姿まである。街道脇には御菓子屋やうどん屋も立ち並び、商売繁盛していたようだ。


こちらが現在の同じ場所の光景。一の鳥居はなくなり、かつての街道は拡幅して片側5車線の国道へと姿を変えた。いまでは都会の幹線道路になっているが、300mほど北に歩くと別の石碑も残っている。


こちらの石碑は約200年前の文政4(1821)年に佐屋宿の旅籠の人々が建立した道標で、美濃街道と佐屋街道の分岐点にある。(なお、道路の拡張により当初よりやや西方に移動している)

南面「左 さや海道/津しま道」
西面「右 宮海道/左 なこや道」
東面「右 なこや 木曽 海道」

佐屋街道は東海道の脇往還として開かれた道だ。東海道が宮宿から桑名宿まで七里の渡し(海路)となるため、荒天の際や体力のない人は陸路によって東西をつなぐ佐屋街道を利用していた。内陸周りの移動は距離こそ長くなるものの海路よりも安全性が高く、シーボルトや明治天皇が利用したとの記録も残っている。


美濃街道と佐屋街道という二つの道が分岐した金山の地は、古来より交通の結節点として人々の往来を支えてきた。現在の幹線道路からは想像もつかないが、かつてはもっとゆったりとした時間の流れの中で、スマートフォンもGoogleマップも持たない旅人たちが道標を頼りに長い旅路をたどっていったのだろう。

 

郊外から副都心へ。名古屋第二のターミナル駅が生まれるまで


佐屋街道の道標がある「金山新橋南」交差点から東に進むと、金山駅南口はもうまもなくだ。
今日の金山の発展になくてはならない駅の変遷についても触れておきたい。

金山はJR東海道線と中央本線、名鉄名古屋本線が並走するエリアだが、鉄道駅が初めてできたのは昭和19(1944)年のこと。それまで線路は通っていたが駅はなく、現在の名鉄名古屋本線が全通したことにより、ようやく名鉄金山駅(開業翌年に金山橋駅に改称)が開業した。また、当時の駅は現在地よりも南東側に300mほど離れた場所にあり、金山周辺には田畑が広がっていたという。

金山はなぜ、田畑の広がる郊外から名古屋第二のターミナル駅のあるまちへと発展していったのだろう。

終戦直後の金山を将来の副都心として見据えたキーマンが、土木技師の田淵寿郎だ。
戦時中に日本や中国の土木工事や都市計画に携わっていた田淵氏は、疎開中の三重県で終戦を迎えた。その手腕から終戦直後に名古屋市の技監として招聘され、名古屋の戦災復興に尽力した人物である。
その田淵氏が、金山を将来の副都心として見出したひとつのエピソードを紹介したい。

終戦から間もない頃、花火大会があり多くの人が金山に詰めかけた。大変な混雑だったが、花火が終わると意外にもスムーズに人波がはけていった。田淵氏は花火大会後の人の流れのスピードから金山の地の利を見出し、交通インフラを整備し、副都心として発展させることをひらめいたという。

他にも、金山は立地的にも名古屋のほぼ中心にあり、国鉄と名鉄の線路が敷かれているという利点があった。また、駅の用地確保においてもすでに市街化されているエリアよりも土地の取得がしやすいという側面もあったのだろう。


昭和21(1946)年に米軍が撮影した金山周辺の空中写真。 出典:国土地理院ウェブサイトより引用 

 

名古屋の戦災復興計画が進められていく中、愛知県、名古屋市、国鉄、名鉄、近鉄などからなる鉄道復興計画委員会は1947(昭和22)年の時点で早くも金山総合駅の構想を打ち出している。
しかし、金山駅をターミナル化し、副都心として整備するという一大事業はそう簡単に実現できるものではなかった。

昭和30年代になると、国鉄中央本線金山駅が開業。昭和40年代には現在の地下鉄名城線の栄駅~金山駅、名港線の金山駅~名古屋港駅、名城線の金山駅~新瑞橋駅が相次いで開業し、ようやく名鉄・国鉄・地下鉄が金山の地に揃った。
それでもなお、東海道線の駅開業や名鉄金山橋駅の移転は実現しておらず、総合駅が完成するまでには長い年月を要さなければならなかった。


長らく実現が叶わなかった金山総合駅の開業に向けて大きな転機となったのが、平成元(1989)年に名古屋市制100周年を記念して開催された「世界デザイン博覧会」(以下、デザイン博)だ。デザイン博の会場となった名古屋城・白鳥・名古屋港を結ぶ中間地点として来場者のアクセスを向上させるべく、いよいよ金山総合駅の整備が進められる機運が高まった。

構想から40年の時を経て、東海道線の駅開業と名鉄駅の移転が実現し、金山総合駅が平成元(1989)年についに誕生。平成初期から中期にかけて駅周辺にもホテルや美術館、名古屋都市センターが入居する金山南ビルなどがオープンし、乗り換えの利便性だけではなく目的地になるまちとしてもにぎわいを見せている。


令和7(2025)年、開業20周年を迎えた金山駅北口の商業施設「アスナル金山」の閉鎖が決まったというニュースが飛び込んできた。今後は駅から300mほど北にある日本特殊陶業市民会館にかけて一体的に再開発し、ウォーカブルなまちづくりを進めるそうだ。まちの変化とともに人の流れはどのように変わっていくのだろうか。いまも昔も多くの人が歩いてきた金山の変化にこれからも注目していきたい。

 

<参考文献>
岡田啓・野口道直 『尾張名所圖會 前編三』(1997年/尾張名所図会を原文で読む会)
三渡俊一郎 『名古屋区史シリーズ 熱田区の歴史』(2006年/愛知県郷土資料刊行会)
石田泰弘 『街道今昔 佐屋路をゆく』(2019年/風媒社)
重網伯明 『土木技師・田淵寿郎の生涯』(2010年/あるむ)
名古屋まちづくり公社ウェブサイト
国土地理院ウェブサイト

WRITER PROFILE

イトウ ユキコ

1990年名古屋市生まれ。日本茶専門店、ギャラリー運営を経てライターに。地域・文化・ものづくりに関心があり、まち歩きの企画にも携わる。ライターのほか、うつわとお茶を届けるお店も運営中。