TEXT : 南 未来
1615(慶長20)年、徳川家康によって建てられた名古屋城。お城の北には下御深井庭(したおふけにわ)と呼ばれる、殿様のための庭園があった。
初代城主・徳川義直は、そこに焼き物の街、愛知県瀬戸市から陶工を招き、「御深井焼」という名で焼き物を焼いたという。そのはるか前から焼き物を作り続けている「唐三郎窯」を訪ねた。
歴史と現在が交差する窯元「唐三郎窯」へ
広い敷地にある工房。
名古屋城から約20キロ東へ。愛知県瀬戸市の赤津という地区に「唐三郎窯」はある。その祖先は瀬戸で陶祖と呼ばれる加藤四郎左衛門景正、通称・藤四郎。貞応2(1223)年に、曹洞宗開祖の道元に従って中国を訪れ、作陶修業の後に帰国し、瀬戸で良い土を発見し、窯を築いたとされている。
名古屋城の御用窯として、声がかかったのは、慶長15(1610)年のこと。十九代・利右衛門(りえもん)の時、現在の岐阜県土岐市に移り陶業を営んでいたところ、徳川家康公の命によって瀬戸へと呼び戻され、御用を勤しむことになった。
名古屋城総合事務所のみなさんや『もーやぁこマガジン』スタッフなどで訪れた時の様子。
「瀬戸の陶工は、江戸時代以前に戦乱で当時の美濃の方へ逃げていたんです。世の中が落ち着いて、徳川家康が名古屋城を築城し、いざ新たな時代が始まるよっちゅう時に、美濃にいた瀬戸の陶工を戻した。うちはどしょっぱつの御用窯を仰せつかって、 やり出したっちゅうことだね」
そう教えてくださったのは、三十一世・加藤唐三郎さん。陶祖・藤四郎直系の家系の者として選ばれ、戦国の争乱で衰微した瀬戸物の復興を目的として呼び戻されたという。
名古屋城に入城する時に通行手形として使われていた「鑑札」。
その当時、尾張藩は豊かな国には産業が必要と焼き物に力を入れ、瀬戸で作られた「瀬戸物」を「御国物産」と位置付けていた。
それゆえ、その待遇はかなり特別なもの。屋敷や窯場は年貢をおさめることを免除され、唐三郎という名前も与えられた。なお、その時からずっと「唐三郎」という名が継がれている。
さらに“名字帯刀”といって、苗字を持つことを許され、太刀を腰に差す武士の特権が、特例として許された。
「お城に入る時には、瀬戸から籠に乗って、刀を刺していったそうですよ。昔はね、古い家の軒先に、そのときに使っていた籠があった。もう、かすかな覚えしかないけどね」
『瀬戸市近世文書集 第三集』より、加藤唐三郎家文書。
「唐三郎窯」には、当時の貴重な文書も保存されている。写真上は「着城に付、出迎申付(着城に際し、出迎えを申付け)」、下は「御窯屋一人増員願」とあり、当時のリアルな様子などが伝わってくる。
御深井焼とは?
さて「御深井焼」とは、一体どのようなものなのか?
わかりやすくいえば、名古屋城の下御深井御庭で焼かれた焼き物のこと。現在、名城公園がある場所の一角に窯場が用意された。
なお、名古屋城だけではなく、利便性の点からおそらく瀬戸でも焼かれていたのではないかと、唐三郎さんは推測する。
このとき、多種多様な焼き物が焼かれていたといい、とりわけ瀬戸の土に鉱物の長石(ちょうせき)と木の灰を混ぜた釉薬を使った作品は「御深井釉」と呼ばれ、御深井焼を代表する作品と言われる。
「御深井釉」が何かというと、いわゆる「灰釉」と呼ばれる木の灰を使った釉薬。国内では瀬戸が初めて焼き物に釉薬を施したと言われ、すべての釉薬の基本となる。
敷地内で見つかった、徳川将軍家の家紋である三つ葉葵が刻まれた、御深井焼大鉢。
御深井釉は焼き方で色が変化し、酸素がたっぷりある状態の「酸化焼成」で焼くと、淡い黄緑色に。窯の中の酸素を制限する「還元焼成」をすると、淡い青色へ。御深井焼で美しいといわれていたのは、還元焼成で焼いた青磁のような、淡い青色のもの。
「この大鉢は、本当なら淡水色というのかな、そういう色になるはずが、還元がうまくかからずに、少し中性気味で焼けたっちゅうものだな。 黄色みを帯びてしまっている。だから、ここにあるんじゃないかな。昔は野ざらしのような所に窯があったわけだから、自然環境の中で、多少うまく還元がかからなかったりしたと思うよ」

理想とする御深井釉は、このように淡く緑がかった青だという。
城内で実際につくっていた作品

こちらも『瀬戸市近世文書集 第三集』より。加藤唐三郎家が提供した製品の見取り図。
当時、何をつくっていたのか、資料が残っている。
それを見ると、サイズや釉薬が指定されている他、文様の大きさや個数なども詳細に書かれている。注文は尾張藩士から行われ、蓋物、茶碗、土瓶といった器のほか、擬宝珠(ぎぼし ※神社や寺院の欄干の上に装飾されるもの)も焼いていたようだ。
釉薬も、青薬(織部)、鉄釉、黄瀬戸など、多岐にわたる。
今も続く、焼き物の技術

「うちの仕事っちゅうのは、結局は昔からの伝統であって、それが唐三郎家の焼き方であり、 窯のやり方であり、生きているうちに必ず習得しなきゃいけない仕事。窯の焼き方やろくろとかは、結局、自分で覚えなしゃあないこと」
灰と水を混ぜたもの。
そのなかで、レシピとしてしっかり受け継いでいるものが、陶磁器の表面にかける釉薬の台帳だという。
「先々代ぐらいからちゃんと残してある。灰は何パーセント、長石は何パーセント、 そういうのは決まっとる。でも、例えば、今まではここの町で焼かれた灰を使っとったのが、なくなってしまって、また別の町の木の灰を使うことになると、少し調合を変える。微妙に色が変わってくることがあるから」
土もかける釉薬によって、わけている。
釉薬の色を思い通りに出すためには、土も計算に入れる。
「御深井の釉薬をかける時の土は、少し鉄分を入れるから。鉄分を入れることによって少し味とか水色っちゅうのかな、この色にもっと深みが出てくるね」
唐三郎さんが、ベースに使っている土は、瀬戸の白く粘り気のある「貫入土」と美濃で採れる鉄分が多めの「五斗蒔」という土を半々にしたもの。左は、御深井をかける予定で、ベースの土にすこし鉄分が加えられている。
鉄分を足すときの原料「鬼瓦」を砕いたもの。
原料をきちんと理解して、理想の釉薬を出していく。
お話を聞いていると、焼き物と向き合う姿は人生をかけた修業のよう。唐三郎さんは、自身のことを陶工と語り、陶芸家とは名乗らない。粛々と、やるべき仕事をまっとうする。
細かな線彫で器を彩る。
はるか昔から伝わってきた技術を身につけることを第一に、ご自身の表現を模索し、真摯に焼き物に向き合う。その姿に、心打たれる。




