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熱田神宮摂社・氷上姉子神社の伝説‐大高斎田御田植祭を発端に大高の情景を歩く‐

TEXT : 榊原 あかね

2024.08.20 Tue

熱田神宮大高斎田御田植祭

名古屋市緑区大高町にある氷上姉子神社で執り行われている祭り「大高斎田御田植祭」。毎年6月の第4日曜に五穀豊穣を願って田舞を奉納し、田植えをする神事である。早乙女(さおとめ)が舞う様子は華やかで、一見の価値がある。大高斎田では昭和8(1933)年から毎年開催され、令和6(2024)年で92年目を迎えた。

令和6(2024年)年6月23日に行われた大高斎田御田植祭の様子。

 

氷上姉子神社から神主らが列をなして斎場である斎田へ向かい、祝詞を奏上し神饌をお供えする。早乙女10名が畦畔に並び、歌に合わせて舞う。その後、斎田に入り田植歌にのせて早苗を植えていく。育った稲は9月28日に抜穂祭(ぬいぼさい)を行い、収穫した米は熱田神宮に奉納され、熱田神宮の祭典神事でお供えされる。

頭に菅笠、手甲と脚絆を身に付け若草色の着物にたすきを掛けた早乙女。

 

一列に並び田植え歌のリズムに合わせて早苗を植える。

 

では、熱田神宮の御田植祭がどうして大高で行われているのだろう。ここ氷上姉子神社は、熱田神宮の摂社となっており、かつて三種の神器「草薙神剣」が留めおかれたお社である。熱田神宮と大高の関係については古代にさかのぼるのだが・・・皆さんもここからは一緒にはるか昔の物語にタイムスリップしていただきたい。

 

あゆち潟に面した大高

古代、熱田以南の南区周辺は海になっており、伊勢湾につながる干潟「年魚市潟(あゆちがた)*1」が広がっていた。その海岸線に沿うようなかたちで北東側の高台に古墳群が残っており、多くは古代氏族の尾張氏と関係が深いと思われている。氷上姉子神社のある大高*2は、熱田台地、瑞穂台地、笠寺台地を北に臨む。現在は熱田と大高の間に陸地があるが、昔は半島になっていた熱田と海を隔てて対峙しているような位置関係にあった。

*1年魚市潟(あゆちがた)とは、愛知県名古屋市熱田区から南区にあった干潟。県名の語源となった。
*2大高はかつて「氷上邑(ひかみむら)」、「火高(ひだか・ほだか)の里」と言われていたが、永徳2(1382)年に火災が起こって社殿や民家に多くの被害があったため、火の字を嫌って「大高」と改められたという。

 

熱田神宮と氷上姉子神社の創建

第12代景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が建稲種命(たけいなだねのみこと)を伴い東国へ征伐を進めるなかで、尾張の国愛智郡氷上の里に立ち寄った。日本武尊はそこで尾張国造「乎止与命(おとよのみこと)」の娘であり、建稲種命の妹「宮簀媛命(みやすひめのみこと)」に出会う。遠征から戻った日本武尊は宮簀媛命と結婚し、氷上にしばらく滞在し愛を育んだ。そんなひとときもつかの間、草薙神剣を宮簀媛命に預け伊吹山へ征伐に行ったが、病によって伊勢国能褒野で命を落とすこととなる。宮簀媛命は後に、日本武尊の御霊とあがめ大切に預かっていたという草薙神剣を熱田の地に奉安する。これが、景行天皇43(113)年熱田神宮の創祀である。宮簀媛命没後の仲哀天皇4(195)年、居所であった火上山に宮簀媛命を祀る氷上姉子神社*3が創建された。

*3表記については延喜式神名帳で「火上姉子神社」、尾張国内神名帳では「氷上姉子天神」と記載されている。

熱田神宮の摂社「氷上姉子神社」。

 

氷上姉子神社の史跡を歩く

ここからは大高でガイドをしている「大高歴史の会」の深谷さんに案内をしていただきながら、由緒のある場所をめぐってみたいと思う。

大高地域のガイドを行っている「大高歴史の会」の深谷さん。

 

元宮

氷上姉子神社から鳥居をくぐり道路をわたった反対側が元宮への入口。「摂社 元宮」の石碑が建っている。参道は坂道になっていて、道の両側は自然のままの樹木が茂り、天照大御神が祀られている神明社がある。さらに足を進めると開けた土地が広がる。創建当時は元宮に氷上姉子神社があったが、持統天皇 4(690)年に現在の場所に還座された。

木々に囲まれた熱田神宮末社の元宮。

 

宮簀媛命が居住し、草薙神剣も熱田の地へ祀られる前まで元宮にあったとされる。今では近くに道路ができ車の走る音も聞こえるが、以前は非常に静かで厳かな雰囲気だったという。現在の本殿のある場所とは異なり、木々の間から光が差し込むひっそりとした場所に、ちょうど平屋一軒分がたてられるほどの平らなスペースがある。社の横にある石碑は、明治36(1903)年に当時熱田神宮の宮司だった角田忠行によって建てられた。「倭武天皇尾張国造ノ之祖宮簀媛宅址」と刻まれ、屋敷の面影も草薙神剣も現在ここにはないが、宮簀媛命の居所であった記録を残している。

宮簀媛命宅跡の石碑が社の隣に建てられている。

 

玉根社

元宮から北に坂道を下っていくと、右手に冒頭で紹介した御田植祭が行われる大高斎田だ。大高斎田からすぐ脇の「玉根社」では医薬・医療、酒造りの神様、少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られている。大高といえば酒蔵があることでも有名な地域で、酒造業の繁栄を願って信仰されていたのだろう。

このあたりは海に関わる地名、名称が多くあるのだが、ちょうど大高斎田のある場所に興味深い地名がついている。「常世島」というのだ。ピンと来る方もいるかもしれない。「常世」といえば、日本神話で海の果ての神域で、死後の世界と考えられていた。海を望みながら未知の領域にさまざまな物語を思い起こしたのだろうか。昔の風景を想像して歩いてみると面白い。

大高斎田の脇にある少彦名命を祀った「玉根社」。

 

玉根社から北に向かうと「沓脱島跡(くつぬぎじまあと)」。日本武尊が靴を脱いだという説と、神域に入るため参拝者が靴を脱ぐとの説とがあり、神聖な領域に入ることをあらわす。

 

浜宮跡

沓脱島跡から更に北には、塩の神、航海の神と言われる塩土老翁(しおつちのおじ)を祀った「浜宮跡」が見える。熱田神宮から来た神主さんや参拝者がここに船を止めて氷上姉子神社へ参拝に向かったのだそうだ。

住宅街に立てられた「浜宮跡」の看板。

 

一の鳥居(浜鳥居)

浜宮跡から北に歩くと、氷上姉子神社の敷地の入口にあたる「一の鳥居」に辿り着く。別の名を浜鳥居と呼ばれる石づくりの鳥居だったが、地震対策、道路拡張のため近年撤去された。この鳥居から、浜宮跡、沓脱島跡、大高斎田、を経て約600メートルの道が氷上姉子神社までの参道となっている。昭和34年の伊勢湾台風襲来以前には、参道の両側には松並木が続いていたが、今では面影はない。

住宅が並ぶこの参道はかつて松並木があった。

 

寝覚めの里

参道から外れ、西へ約250メートルの場所にあるのが「寝覚めの里」の石碑。元宮の石碑と同じ熱田神宮宮司角田忠行によって明治43(1910)年に建てられたもので、日本武尊と宮簀媛が「毎朝、潮騒の音で目が覚めた」という故事にまつわる。深谷さんいわく“海沿いのビーチリゾートのような”光景。「中ノ島」という地名から考えるに離れ小島のようになっていたのかもしれない。今でいうなら恋人の聖地のような、潮の満ち引きで現れる道でデートを楽しんだのだろうか、とロマンチックな場景を彷彿させるのだ。ちなみに、寝覚めの里は、御田植祭の田舞でも歌われている。

「寝覚めの里」。以前はもう少し東にあったとされる。

 

さて、神社周辺を歩きつつ古代ロマンの旅へとお連れしていたが、そろそろ話を現代に戻そうと思う。

 

大高での御田植祭の始まり

大高斎田での御田植祭は、昭和8(1933)年に始まった。明治から戦後までは名古屋市瑞穂区神穂町で行われていたが、都市化により継続が困難になり、地元の篤志家方々から寄付を受けて大高で行われるようになったのだそうだ。近代化が進む名古屋で大高にはまだ豊かな土地が残っていたであろうこと、これまでの熱田神宮と氷上姉子神社との関りを考えれば、ここで行われるようになったのは自然なことだろう。

熱田神宮大高斎田。写真左側が御田植祭で苗を植える部分。

 

なお、今回は御田植祭を紹介したが、他にも熱田神宮と関わりの深い祭りがある。例えば5月6日に執り行われる「頭人祭」。前日の5月5日、熱田神宮神輿渡御神事に携わった頭人が氷上姉子神社への途中、鷹狩をして獲物を奉納していたと伝えられている。鷹狩ができなくなってからは鷹の絵を描いた絵馬を奉納するまつりに変わった。伊勢湾台風で以前の絵馬はなくなってしまったが、それ以降の絵馬は拝殿の左右に飾られている。古いものは真っ黒になっており蓄積した時間を感じることが出来る。参拝の時に見られるので、ぜひご覧いただければと思う。

 

氷上姉子神社から尾張の歴史を知る

大高は西に伊勢や伊吹、東に三河や静岡へ向かう中間地点であり、海沿いの地勢もあいまって時の政権が統治を進める際には重要な拠点と考えられ、後の尾張の繁栄にも関わっていく。周辺には戦国時代の名勝地の桶狭間古戦場、江戸時代に繁栄し現代まで続く酒造業など、ロマンをかきたてる名古屋の歴史や文化に関わる題材をあげれば尽きることはないのだが、とても書ききれないのでそれはまたの機会に・・・。

これまで現地を案内してくれた深谷さんは言う。「氷上姉子神社は、地元の方にとって氏神様として信仰されていました。お祭りがあると地域の子ども達でにぎわい、地域住民から「お氷上さん」と親しまれていますが、草薙神剣にまつわる伝説や氷上姉子神社の成り立ちについて知っている方は少ないかもしれません」。筆者が訪れたときにたまたま地元の小学生が現地学習に来ていた。この子どもたちは知っているのだろうか。「この神社ってね、すごいんだよ」とおせっかいながら教えたくなったのである。

木漏れ日を背にした宮簀媛命宅址の石碑。

 

<参考>
『尾張国熱田太神宮縁記』
『大高町誌』
『あゆち潟の考古学 弥生・古墳時代の名古屋』

WRITER PROFILE

榊原 あかね

物心つく前から名古屋で育つ。趣味の街歩きや食べ歩きが高じ、ライターとなった一児の母。子育てをする中で地元に愛着を感じ、地域に貢献したいと漠然と思うように。まちづくり活動に関わりながら、名古屋に根付く歴史、伝統、文化、人の魅力を改めて知り、それを伝えたいと思っている。地元緑区のフリーペーパーを自主制作中。