TEXT : 石黒 好美
大名古屋ビルヂング、JRゲートタワー、そしてグローバルゲートと、新しいビルが軒並みオープンし賑わいをみせる名古屋駅周辺地区。しかし、駅の西側へ足を延ばすと、「駅西銀座」と呼ばれる昔ながらの商店街や、下町の雰囲気を残した住宅街が広がります。
そして、駅西銀座からさらに西へ10分ほど歩くと中村区の「大門」と呼ばれる地区があります。ここには、大正時代から戦後にかけて「中村遊郭」と呼ばれた花街がありました。
当時は日本最大の遊郭と名を馳せた中村遊郭ですが、現在の大門は静かな街です。レトロな商店街のアーチが廓の雰囲気を思わせますが、通り沿いにはシャッターが閉まったままの商店も少なくありません。
そんな大門地区で、ひときわ目を引く大きな建物があります。大正時代の遊郭を改築し、現在は高齢者の方向けのデイサービスセンターとなっている「松岡健遊館」です。大門で生まれ、街の移り変わりを見続けてきた「松岡健遊館」オーナーの鬼頭完次さん(70歳)にお話をうかがいました。
新しい都市に現れた、新しい遊郭
中村区に遊郭を作ろうという計画が持ち上がったのは、大正9年頃。明治時代を経て商工業が盛んになり、鉄道も整備されてきた時代でした。名古屋は都市計画法の適用都市となったこともあり、将来の拡大・発展を見越して計画的にまちづくりをしていこうという機運が高まっていました。「当時の議員さんなんかは『名古屋を国際都市にしよう』と息巻いていたようですよ」と鬼頭さん。名古屋の都市整備が進むにつれ、風紀上の問題から中区の中心部・大須観音の傍にあった『旭遊郭』を、静かな田園地帯だった中村区へ移転させることになったのです。
鬼頭さんの祖父は、下一色町(現在の愛西市付近)で魚料理の店を営んでいました。中村が開発され大きな町ができると聞き、旭遊郭から移転してきた店に交じり、大正12年に『一徳』という店を開きました。
「他は店で出す料理は仕出しを取っていましたが、『一徳』はずっと店内で調理をしていたんです」。
「遊郭を作るにあたって、日本全国から芸妓を集めたと祖父から聞きました。贅を尽くした豪華な店構えの建築で、中村は料金も全国で一番高かったそうですよ」。
中村遊郭の総面積は3万坪を越え、最盛期には娼家の数は140件。多くの娼家は木造二階建ての建物をコの字型やロの字型に作り、『坪庭』と呼ばれる中庭を設けていました。伝統的な妓楼にならった和風建築の中に、流行し始めていたアール・デコの影響を受け、凝ったタイルやステンドグラスのデザインもふんだんに取り入れられました。
幹線道路や名古屋港の整備も進み、陶磁器や織機、航空機や電気機器などの大きな会社が居を構え、瞬く間に日本でトップクラスの都市となった名古屋市。栄町のデパートや、市内に40以上あったという劇場や映画館とともに、ネオンの輝く中村遊郭も、大正ロマンの時代に現れた都市のライフスタイルのひとつとして、人々の心を躍らせていたのでしょう。
「『一徳』のお客さんは羽振りのよい人ばかり。自分も子どもの頃にはチョコレートやお小遣いをよくもらってね。いいおじさんたちだなあ、なんて思っていましたよ」。
戦災で焼けた建物もあり、隆盛を極めた戦前ほどの賑わいはないものの、中村遊郭では戦後も数十軒の店が営業を続けていました。
「その頃は織物産業が好況で『ガチャマン景気』なんて言われてね。一宮に繊維工場を持っている社長さんたちがお得意様だったんですわ。みんなうちに住んで、うちで仕事をしていたんですよ」
鬼頭さんによれば『一徳』の部屋にはお客が住み、芸妓の女性が客の部屋へ呼ばれて通って来ていたそうです。
「社長さんが新しい会社と取引を始めたいと考えるでしょう。そうすると当時は、巻紙に墨で手紙をしたためて、丁稚にその会社に届けさせるんです。この日の六時に『一徳』で待っておりますので、来てくださいってね。
それで、相手方の社長さんが手紙の時間通りにやって来たら、それで取引は成立なんですわ。
うちに来てからも、仕事の打合せなんかしませんよ。華やかなところに来て、飲みながら商売の話なんかする野暮な奴とは付き合わねえ、ってね」。
戦後の混乱期から脱しつつあった昭和20年代後半、経済でも文化の面でも、現在とは大きく異なる慣習が残っていたようです。
「当時は契約書をくれ、設計書を作れなんて言ったら『相手がそんなに信用できんのか』『そんなに信用できん奴を相手に商売するのか』なんてどやされましたよ。今とは、全く逆でしょう。
昔の商売人は宣伝も嫌いで『頼んでまで売るな』と一切宣伝もしませんでしたね。
嫌いと言えば、みんな写真も嫌ってね。特に女性を写真に撮るのは失礼だと言われていて…。遊郭のことを調べに来た記者さんなんかに、当時の写真がないかとよく聞かれるんだけど、本当に無いんだわ」。
その後、街が大きな転機を迎えたのは昭和33年。売春防止法の施行に伴い、全ての店が廃業、または転業を余儀なくされ、中村遊郭は36年の歴史に幕を閉じました。東京オリンピックを6年後に控え、日本が高度経済成長の只中にある時でした。
料理旅館として生まれ変わる
『一徳』閉店後、昭和35年には料理旅館『松岡西店』として再び店を開きました。美しい坪庭と、技巧を凝らした欄間などの建具。加えて、長尺の桧や欅の丸太など、全国から集めた銘木をふんだんに使用した宴会場『松欅殿』を備えた旅館です。天井に付けられたシャンデリアの、和洋を折衷した意匠の美しさには息を呑みます。かつては結婚式も行われていたそうで、松の木の描かれた舞台の襖を開けると、神殿が備えられていました。
しかし、松岡西店のように転業して商いを続けられた店は少なく、かつての面影を残した建物は昭和の時代に次々と取り壊されていきました。訪れる人も少なくなり「大門という街のイメージも良くないものになっていった」と鬼頭さんは語ります。
「若い人は『風情があっていいですねえ』なんて言ってくれるけれど、私たちより上の世代の人は遊郭というとみな嫌な顔をされますよ。誰も、当時のことを話したがらないです。
廓の商売を悪い目で見られることも少なくなかったですしね…私も小さい頃は、少し恥ずかしい気持ちがありましたもの。
大門は、今の錦や女子大小路のような繁華街だったんですよ。でも、他の遊郭と違って、(都市計画によって)『作られた街』だった。ほんの短い期間しか開いていなかったこともあり、遊郭ならではの文化が育たなかったのかもしれません」。
時代に合った活かし方を求めて
平成13年には、松岡西店も看板を下ろすことになりました。しかし、どうにかこの建物を残すことはできないかと考えた鬼頭さんが注目したのが、始まったばかりの介護保険制度でした。
「もともとうちは旅館ですから、お客さんに美味しい料理を出して、風呂で寛いでもらうという点では同じでしょう」
こうして松岡西店の一階は改装され、高齢者向けのデイサービスセンター「松岡健遊館」となりました。もとが遊郭であったことから、最初は男性ばかりが利用していたとか。
「皆さん昔を偲んで『懐かしいなあ』『ここの店は、高くて来れなんだんだわ』なんて仰っていましたね。
そのうちに、女性の方も来ていただけるようになりました。昔は女性は入れませんでしたから『どんなところかいっぺん見てみたかった』『きれいな庭やねえ』と喜ばれていますよ」。
代々工夫を重ねてその姿を残してきた松岡健遊館の建物。一階はこうして高齢者の方の明るい笑い声が響いていますが、二階は旅館が閉店してからというもの、ほぼ手付かずのままになっています。
最近ではこの建築の美しさに魅かれた若い人たちが集まり、定期的に二階の掃除をしたり、良い活用の仕方がないかと考えてくれているそうです。
「今の人たちが面白いと思ってくれる使い方で残っていってくれればと思います。あと10年から15年くらい、頑張って持たせたいなと思っているんです。名古屋駅にリニアが来た時、ここが残っていたら好対照の雰囲気になって、面白いでしょう。
建物を維持していくのは、本当に大変です。でも、今は厳しいけれど、きっと時代に合った使い方が見つかると信じて、土俵際で踏ん張っていきたいですね」
松岡健遊館本店(松岡大正庵)
名古屋市中村区日吉町13番地
052-481-2282
http://matsuoka.kenyu.co.jp
参考文献:
神崎宣武「聞書 遊郭成駒屋」講談社、1989年
若山滋「遊蕩の空間 中村遊郭の数寄とモダン」INAX出版、1993年
木村聡「赤線跡を歩く」ちくま文庫、2002年
池田誠一「プロジェクト紀行 名古屋近代の都市づくりー三大都市への道―」【8】三大都市<大正後半>…大正の飛躍
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