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短歌ひとすじに生きた 長者町の女流歌人 

TEXT : 谷 亜由子

2018.06.12

小塩「そもそも裕福な家の生まれで育ちも良く『長者町のお嬢様、お姫様』とまで言われた青木先生が、なぜそのような活動に足を踏み入れていったのか、ということを考えていくと、実は、そういう生まれや性別といったものに縛られているからこそ、より自由になりたい、自分の好きな表現をしたいという強い思いがあったのではないかと思いますね。」

婦人解放活動の色を濃くしてゆく『青鞜』への、社会からの圧力が次第に度を増す中で、青木穠子は理解のある夫の協力のもと、個人の歌集『木霊』を出版し好評を博す。その中に掲載したのが冒頭の歌である。このことからも、『青鞜』への決別、そしてまた、我ひとり短歌一筋に生きて行こうという決意の姿勢がうかがえる。

書棚に並ぶ歌集『こだま』

昭和に入り、戦争が熾烈を極めつつあった1941年(昭和16)、温厚な人柄で地域でも人望の厚かったという夫の錫氏が病死。さらに空襲により家財の一切を失い、一時は岐阜の飛騨高山に疎開するが、青木穠子は戦後すぐに名古屋に戻って短歌の活動を再開する。歌誌『明鏡』を主宰し、後進の指導にあたるなど中部の短歌界のために力を注いだ。

そしてついに1964年(昭和39)、地元の歌人、短歌愛好家らのための活動拠点をと、自費を投じて「短歌会館」を建てることとなる。

小塩「当時は現在の丸の内、中日病院のあるあたりに中日新聞の本社があったんですが、そこの記者たちがすぐ南方にあたる長者町にあった青木先生のご自宅の座敷で、会議や寄り合いをさせていただいたりしていたそうです。『中部日本歌人会』というのは今でも組織上は中日新聞の文化事業部にありますので、当時から密接な関係があったのでしょうね。しかし、やはり個人のお宅ではいろいろ使い勝手も良くない。そこで短歌の活動をする人たちがもっと気軽に使える場所をという思いから、そのころにはまだ珍しかった公共の会議室として、都心にあのようなビルを建てられたんですね。」

歌集

直筆の随筆

青木穠子の短歌への深い情熱が形となった『短歌会館』。その一室には、現在も青木文庫として貴重な蔵書や日記、随筆、アルバムなど、ゆかりのものが数多く残され、市民にも公開されている。

小塩「しかしそれもごく一部で、先生が寄贈した蔵書は鶴舞図書館などに入っているとも言われています。もっとも、当時のことや先生のことを知っている職員さんもいまはもうほとんどいらっしゃらないかもしれませんね。」

青木穠子が愛した『短歌会館』の中庭には、歌碑と胸像がいまもひっそりと佇む。

胸像

歌碑

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谷 亜由子

WRITER PROFILE

谷 亜由子

放送作家として20年以上にわたり番組制作の現場で活動後、NPO「大ナゴヤ大学」の立ち上げに携わり企画メンバーとして活動。「SOCIAL TOWER PAPER」、「ぶらり港まち新聞」の企画・取材などを担当。地域活性プロジェクトなどの仕事では各地を旅しています。何かの奥に隠れているものを覗くのが好き。蓋のある箱の中身や閉ざされた扉の奥にある空間、カーテンの向こう側の景色が気になります。人の心の奥にある思いや言葉を引き出す取材、インタビューが好きなのもそれと同じなのかもしれません。