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名古屋・栄に店を構えて65年。 高級洋装店「舶来の店 パリー」オーナーの“パリーさん”は今年90歳を迎える現役の服飾デザイナー

TEXT : 谷 亜由子

2017.09.26 Tue

「ウールはイギリス製、シルクはイタリーのものが一番ね。このレースも素晴らしいでしょう?レースはフランスで、丁寧な刺しゅうはスイス製・・・。ここに並んでいるのはどれも最高の品質なの。」

アトリエも兼ねた店内に設えられたガラスケースには、一目で高級素材とわかる服地が並ぶ。すべて世界の国々から丁寧に選び輸入した舶来の生地ばかり。それらにそっと手を添え、愛おしそうに見つめるパリーさんの眼差し。さりげない所作のひとつひとつが、長年ファッションという華やかな世界に身を置いてきた女性らしく、とてもエレガントだ。
そんなパリーさんは、戦後の名古屋で服飾デザイナーとして第一線で活躍しながら、今日まで栄の街の移り変わりを静かに見守り続けてきた人でもある。

 

 

21歳から洋裁学校に通い服飾デザインを学んだ。洋装店を営むご主人のもとに嫁いだのは26歳の時。昭和20年代、栄交差点の近くにあったという「丸武百貨店」の一角に、いまは亡きご主人が開いた小さな洋装店が「舶来の店 パリー」のはじまり。
当時、「若いうちにデザイナーとして本場の技術を身につけなさい」というご主人のすすめで、二人の幼子をご主人に託し、一大決心をして単身でパリに留学。その後、現在の場所に晴れて“自分の城”である現在のお店をオープンさせた。それがいまから45年程前のこと。

「そのころ全国に5つの支部を持つ日本デザイナークラブというものがあって、その中部支部が主催する、年に二回のファッションショーに毎年作品を発表していたの。40年くらい続けたかしらね。ショーの会場は確か文化会館だったと思うわ。」

懐かしそうに昔の記憶を辿るパリーさん。娘の由佳梨さんにもお願いをして、母と娘の思い出話をうかがった。

 

 

由佳梨さん(以下:由)「文化会館というのは今のオアシス21の場所にあった県の施設ね。その頃は県図書館やNHKもそこにあったわね。真ん中に噴水があって、子供だった私は栄公園でよく遊んでいたわ。」

すゞゑさん(以下:す)「まだお店が栄の交差点の近くにあったからね。あなたが小学校に上がる頃のことね。」

「学校が終わった後の遊び場はいつもデパートの中。デパートが閉まると公園に行って遊んで。あの頃ってデパートの閉店時間が夕方の6時だったの!いまでは信じられないほど早いでしょう。でも当時はそれが当たり前。お仕事帰りの人とかゆっくりお買い物する時間もないけれど、みんなどうしてたのかしら。」

「いまと違って栄のデパートへお買い物に行くというのは特別なことだったのよ。お休みの日に家族揃ってお洒落をして出かけるような場所だったのね。」

「栄で生まれて栄で育った私にとってはデパートでさえ日常の遊び場だったけど。あの時代はそうかもしれないわね。あ、でも広小路祭りのときだけは7時まで延長してた!」

す「三越ができる前、オリエンタル中村の時代ね。」

「そう。いまライオンがいるあの角に昔はカンガルーがいて。あのカンガルーに抱きついたりして遊んだわ。」

「あなたはその前の丸武百貨店のことは覚えていないでしょう?」

「覚えてますよ。場所はちょうどいまのラシックのあたり。」

「そうそう。あなた本当によーく覚えてるわねえ。」

「子供の目線で見てたからかしら。それにお母さんはいつも仕事で忙しくて。お店が終わるまで私は家にも帰れない。待たされているあいだ、あのあたりは毎日私の遊び場だったのよ。」

「そうだったわね。けどその丸武さんもわりとすぐになくなっちゃった。あのあたりは戦後はいわゆる進駐軍、外国の兵隊さんたちがいっぱいいたのよ。」

「さすがに終戦直後のことは知らないわ。そういえばあの頃って広小路に屋台がずらりと出ていなかった?」

「そうそう。屋台が出てたわね。食べ物屋さんやらいろいろあって賑わっていたのよ。」

「いろいろ覚えているものね。栄からいまの場所にお店を移転したのは・・・私が中学の二年生から三年生に上がる春休みだったと思う。」

「じゃあ45年くらい前ね。でも私はあまり細かく覚えていない。あの頃はお店の切り盛りだけで精一杯でそれどころじゃなかった。」

「あの頃と今とでは町の様子ががらっと変わったわね。」

「本当ね。移転した時のことでこれだけはよく覚えているんだけど、いよいよ栄を立ち退かなくちゃならなくなって移転先を探して困っているときに、あるお客さまからの紹介でこの場所に決めたでしょう。あの時ね、ここへ引っ越してすぐに、“あらまあ、私はなんてところに来ちゃったのかしら!”って愕然としたのよ。」

「栄と矢場町とではまるで雰囲気が違ってたものね。」

「そうなのよ。松坂屋を境に南側のこの一帯はまだまだ人通りもぐんと少なくてね。小さなお店がちょっと並んでいるだけで、ずいぶんと寂れた雰囲気だったの。それまで賑やかな栄に慣れていたものだから、はじめはなんという田舎に来ちゃったのかしら!って。」

 

パリーさんのお店は大津通沿い、パルコの正面にある。栄ミナミエリアといえばいまや観光客はもちろん、ファッションやカルチャーに敏感な多くの人が行き交う栄随一のファッションストリートだ。ところが当時、栄交差点からわずか数百メートルほどの距離にもかかわらず、南と北で町の様子は今では想像ができないほど違っていたそうだ。

 

「あの頃すでに栄は垢抜けた町だったけれどこちらはまだ下町の雰囲気。最初はこんな場所でお店をやっていけるのかしらなんて不安に思ったものよ。でもね、その後、目の前にパルコができて。それで町が一気に変わったわ。」

「もうすぐ30年になるのかしら。パルコができる前、ここはゴルフの打ちっ放しの練習場だったのね。その向こう側にそば屋さんの大きな松の木があった。景色が今とはまるで違っていた。パルコができて栄の町が南北でひとつになった気がするわね。」

「でも、やぶそばさんはパルコができた後もずっと続いていたし、岡本造花店さんはその当時からあったのよね。その隣にはベルンっていうガラス張りの喫茶店があって。」

「あったわねー。私が小さい頃には大津通にはもう車もけっこう走っていたけど信号なんてなくて、あったのは栄交差点だけ。いまのラシックの南側、お漬け物の大和屋さんのある交差点にも信号がなかったの。道の向こう側に渡るのが恐くて。横断中の旗を持って待っていると、昔のおばちゃんたちはみんな優しくてね。“渡るの?じゃあ一緒に行きましょうね”なんて言って手を引いて渡らせてくれたりしたのよ。」

「昔は子供を育てるときに心配することが今とは違っていたわね。ひとりで公園で遊ばせておけばとりあえず安心。危ないのは車くらい。だから“公園から出ちゃだめよ”なんて言って遊ばせておいたりしたけれど。」

「いまじゃあ、公園にひとりで遊びに行かせることの方が危なくて心配な時代だもの。随分とのどかな時代だったわね。」

「お店の前を行き来する人たちの雰囲気も時代とともに変わっているわ。」

「町が一気に変化したというか、大きく動いたのはやっぱり戦争のすぐ後の時代だったからでしょうね。戦後ってみんなが何もないところから立ち上がった時代だから。」

「そうかもしれないわねぇ。気がつけば、私もこちらに来てからの方が長くなっちゃった。」

「デザイナークラブのショーに出し続けていたころがお母さんの黄金時代だったわ。そしてこのパリーとお母さんはずっと “栄の人”。それなのに、こんなに長く頑張ってきても、うちにはその頃の写真がひとつもないのよね!」

「そうなのよ。写真が全然残ってない。だって写真撮ってる余裕なんてまるでなかったもの。仕事というものはね、お金をいただいて注文をお受けしたら何があってもとにかく着られるものに仕上げなくちゃいけない。責任ですから。子供のこと、家庭のことももちろん大切だけれどそのときには仕事のことを考えるので精一杯だった。他のことをする余裕はなかったわ。その分、お父さんが子どもたちのことを気にかけてくれていた。お父さんがあってのパリーだったわね。」

 

 

二人の思い出話から見えてくる、時代ごとに表情を変えてきた栄の町の情景。色や匂い、音までをともない生き生きとよみがえってくるようだ。
町の変遷を見つめながら、多くの得意客のオーダーをこなし、ひたすら仕事に邁進してきたこれまでの年月を振り返るパリーさん。デザイナーとして仕事を続ける意欲をまだまだ残しつつ、ついに今年、お店を閉じることを決意した。

「ここにあるたくさんの生地ももう私の手で洋服になることはないの。少しさみしさも感じるけれど、閉店を機に、欲しいと言う方に思い切って格安にお譲りしようと思っているの。片付けるというのはそういうことだから。おしまいにすると決めたのならば未練を残さず潔く片付けなくちゃね。」

 

 

戦争が終わり、物の無い時代を経て、人々が日々の生活に潤いと華やぎを取り戻していった激動の時代。自由にお洒落を嗜む余裕を手にし、自分のために仕立てられた洋服で美しく装うことを楽しんだ女性たちに、パリ仕込みの技術とセンスで洋服を創り続けてきた。
そんなパリーさんが口にする“時代の後始末という”言葉が印象的だ。

 

「私の仕事はね、“時代の後始末”だと思っているの。時代とともに流行はどんどん変化していくし、町には常に新しい服があふれている。そこから好きな服を選んで気軽に着る。いまはそういう時代だからそれでいい。それでも今日までずっと、私に服を作って欲しいと言ってくださる方もいてくださった。だから細々とでも頑張ってこられたの。でもついにお針子さんもいなくなってしまった。時代が変われば町も変わる、仕事も変わる。仕方の無いことね。これまでずっと好きなことをしてこられたのだからこれでいいのよ。」

 

WRITER PROFILE

谷 亜由子

放送作家として20年以上にわたり番組制作の現場で活動後、NPO「大ナゴヤ大学」の立ち上げに携わり企画メンバーとして活動。「SOCIAL TOWER PAPER」、「ぶらり港まち新聞」の企画・取材などを担当。地域活性プロジェクトなどの仕事では各地を旅しています。何かの奥に隠れているものを覗くのが好き。蓋のある箱の中身や閉ざされた扉の奥にある空間、カーテンの向こう側の景色が気になります。人の心の奥にある思いや言葉を引き出す取材、インタビューが好きなのもそれと同じなのかもしれません。