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無数の欠片ひとつひとつに。幾人もの人の想いがこもるモザイク壁画。

TEXT : 谷 亜由子

2018.01.30 Tue

2011年の春、一冊の名古屋案内本を出版した。名古屋のまちの「たからもの」たちを拾い集めて、情緒あふれる写真と文章とともに紹介する『なごやのたからもの』。

長く続く老舗や名古屋の誇りともいうべき名物、人物、建築などの魅力を、ひとつずつ丁寧に取材し、一冊の書籍に仕上げていく工程は、決して楽な道のりでは無かったけれど、それぞれの歴史を、また、それを受け継いで来た人々の想いを知るにつけ、私たちのまちの中には、こんなにもたくさんの“たからもの”が散りばめられているのだという発見と感動を、製作に携わった仲間たちとともに味わうことができた、楽しく有意義な日々だったことを思い出す。

当時、取材先とのコーディネートを担っていた私は、著者である甲斐みのりさんに、なごやのたからもののひとつとして、まちのあちこちに存在するパブリックアートを紹介した。

中でも、以前から興味のあったモザイク壁画については、甲斐さんも同様に関心を寄せてくださり、所有する名古屋市営地下鉄や中日ビルなどへも問い合わせ、誰がいつ、どのような機会に製作したものかをうかがった。

当初は担当部署の方でさえ詳しいことがわからず、こちらの問い合わせをきっかけに、改めて古い資料を繙いてくださったりもした。そうしたリサーチの過程で、名古屋市内に点在するモザイク壁画の多くが大垣市出身の洋画家、※矢橋六郎氏の手掛けたものであることを知る。

※ 矢橋六郎(1905〜1988)は、岐阜県不破郡出身の画家で、東京美術学校西洋画科を卒業後、昭和の洋画界の巨匠、梅原龍三郎氏に師事したのち、同世代の画家の仲間らとともに自由美術家協会を設立。実家の家業である矢橋大理石商店で働きながら画業を続け、昭和25年には画家仲間の村井正誠らとモダンアート協会を設立。実家の仕事の影響もあったのであろうか、モザイク作家としても数多くの作品を残している。

 

名古屋市営地下鉄桜通線名古屋駅、ホームを上がった改札内の壁に設置されている壁画も矢橋作品のひとつ。もともとは東山線名古屋駅の改札前、切符売場付近にあったものだが、大ナゴヤビルヂングの建てかえ工事のため移設されたそうだ。

作品に記された年号は昭和42年11月。名古屋市交通局の方の話によれば、昭和32年に名古屋に初めての地下鉄が開通し、その10周年の記念として作成されたものではないか、とのこと。

モチーフには、名古屋城のしゃちほこやテレビ塔、名古屋港など、地下鉄沿線の見どころを象徴するもののほか、地下鉄の掘削工事の様子なども描かれていて、名古屋に暮らす私たちにとっては非常に親しみを感じる楽しい作品だ。

作者の名前や人物像、作品の背景を少し知るだけでも、作品への興味と愛着は一層深まる。

しかし実際のところパブリックアートは、まちの日常風景に溶け込み過ぎていて、普段、その存在をことさら気に留める人はあまりいない。ましてや、それを作った人は誰で、どのような経緯でできたものなのかなど、そこに関心を寄せる人も少ないことだろう。

この壁画が今の場所に移設される前、東山線改札口で30分ほど佇み、歩く人たちの様子を観察してみたことがあるけれど、やはり、ほとんどの人がそこにある壁画に目を留めることはなく、皆、その前をせわしく行き交うだけであった。

それから7年、昨年開催された「やっとかめ文化祭」のまち歩きツアー、森上千穂さんの案内によるモザイク壁画巡りに参加して、あらためて名古屋市内にある貴重な作品の数々をじっくり見学させていただいた。

新栄・CBC社屋の外壁に設置された北川民次の原画によるモザイク壁画を皮切りに、中日ビルの天井画、名古屋中央教会、丸栄百貨店、カゴメ本社ビル、愛知県庁西庁舎まで、2時間半ほどの間に6ヵ所を見て回るという充実の内容。

それぞれの作品の前で、歴史、背景、見どころなどを説明する森上さんは、自身でまとめたというガイド用の資料を手にしているものの、それにはほとんど目をやることなく、自らの言葉で語り、参加者からの質問にもすらすらと答えていく。情報を伝えながら見学者を引率するガイドというよりも、「好き」という純粋な気持ちを原動力に、その魅力を多くの人と共有したいという想いが伝わるような、森上さんのモザイク壁画への愛情をひしひしと感じる良い時間だった。

何十年ものあいだ、まちの風景に溶け込み、わざわざ足をとめて眺める人は少ないと感じていたモザイク壁画だが、それについてここまで深い愛を持って語る森上さんにとても興味が湧き、後日、あらためてお話をうかがった。

インタビューのはじめに、まず、モザイク壁画の何にそれほど惹かれるのかを聞いてみると、森上さんは、「聞かれることは多いですが、実は自分でもこれという明確な理由が答えられないんです。」と戸惑いつつ、しばらく考えた後、「きっと、いろいろありすぎて端的に言えないのかもしれない。興味を持つきっかけはあったんですけど、そこからいろいろ調べていくうちにどんどんはまってしまったので。いつの間にか、そこに壁画があると聞けば、見に行かなくてどうする!みたいな気持ちで出かけるようになっていました。」

ところが「そもそもそうやって、好きだから見に行くっていう純粋な動機だったはずなのに、ガイドツアーなどをするようになってからは、期待に応えるためとか、知識を増やすため、コースを組む前の下見のため、みたいな理由で動くことが多くなってきてしまって。」最近のそんな姿勢を反省することが増えたのだと言う。

「とは言え、こうしてガイドをするために本を引っ張り出してきてもう一度読み返してみたりしていると、あ、これ見落としてたな、みたいことに気づくこともあるし、説明のために資料を文章にしていると、自分の知識や情報がよりまとまってくるので、もう一度よく調べようと思える。原点に帰ることができるんです。」

森上さんがモザイク壁画と出会い、興味を深めるようになったのは、意外にもまだほんの3,4年前のこと。きっかけは、主婦ならではの何気ない出来事だった。

「台所で使うキッチンペーパーホルダーを手作りしたんです。材料がキットになっているもので、直径数センチの円形のベースに、説明書を見ながら小さなタイルを並べて目地を埋めるだけの簡単なもの。そんな小物を作っただけだったんですけど、出来上がったものを見て、きゃー、いいじゃん!って、なんだかすごく嬉しかったんですよ。」

そこで、「次はもっと大きくて難易度の高い作品を作ってみたくなって。ネットで探してみるものの、あまり良いものが見つからない。けれど、それがきっかけになって“タイル”だとか“モザイク”なんていうワードを毎日検索しているうちに、多治見の方にモザイクアートの教室があるとか、常滑にタイルの博物館があるということを知ったんです。」

気になる場所へは実際に出かけてみることも。やがて、タイル業界の専門誌があることを知り、すぐに定期購読を開始。さらに過去の記事も読んでみたいと、バックナンバーをすべて取り寄せてしまうほどのめり込んでいく。

「読んでいると、自分が知らないことがいろいろ出てくる。で、また検索してあれこれ調べて・・・そんな感じでどんどん深みにはまってしまうんです(笑)」

知りたいことを追求していくと奥が深過ぎてキリが無い、と笑う森上さんだが、知れば知るほどに惹き付けられる一番の理由についてうかがうと、「やはり、そこに必ず“人”がいる、それに尽きますね。」

主婦である森上さんは、自らのことを「美術はおろか、壁画やタイルの専門家でもないし、ただ好きだという想いだけ。作品への強いこだわりがあるわけでもない。出来がいいかどうかの評価もできない。」と言うけれども、「知りたいという気持ちだけしかない。でも、会いたい人、お話をうかがいたいと思う人には、メールやお手紙などで、思い切ってアプローチするんです。」

かつて壁画づくりに関わった人たちが、逆にそんな森上さんに興味を示し、直接会って話を聞かせてくれたり、その後、森上さんのツアーにゲストとして参加してくださるなどの交流も生まれる。

「モザイク壁画がもっとも多く製作されたのは、矢橋さんたちが活躍された昭和40年代前後だと思うんですが、そこから40〜50年という時間を経た今だからこそ、私のようなものにも、当時を思い返しながら懐かしい気持ちでお話を聞かせてくださるのかもしれませんね。」

数十年前、壁画の製作現場では、画家をはじめ、タイル職人、画学生など、おそらく大勢の人たちが汗を流し、力を合わせ、大変な時間と労力をかけ作品づくりに情熱を注いだことだろう。だからこそ当時のことを知る人たちが語る、臨場感あふれるエピソードや作品づくりへの想いを聞くことは貴重で、作品そのものの魅力とともにまたほかの誰かに伝えたくなってしまうのだと森上さんは言う。

さらに、「作品づくりに携わった人たちの中にはすでにこの世にいない人もいます。作品自体もいつまであるかわからないものばかり。丸栄も、中日ビルも取り壊しが決まりましたよね。名残惜しいけれど、それも仕方が無いことなんですよ。建物と運命を共にしている限り、壁画はいつかは無くなる運命を秘めているんです。そんなに好きなら保存運動でもすればいいのに、なんて言ってくれる人もいるけど、私の想いは少し違うんですよね。建物とともに時を経たものだから、より魅力があるし、無くなる運命だからこそ価値があるように思うんです。」

ところで、順調に製作が進んでいた『なごやのたからもの』は、出版までの長い作業もようやく終盤を迎えて、いよいよ印刷という段に差しかかったころに、あの東日本大震災が起きた。

東北にある紙の工場から調達するはずだった印刷用紙の運搬が遅れ、発行は当初の予定より延期となってしまう。幸い一週間後には無事出版することができたが、ある日突然、大切なものを失ってしまうことの衝撃と儚さを、思いがけず身近に感じたこの出来事は、たとえいつかは無くなる運命であっても、いまそこにあること、あるものへの感謝、向き合い方をあらためて深く考えさせられる機会にもなった。この想いは、奇しくも本のコンセプトとも重なり、印象深い思い出となった。

「矢橋さんの作品集を何冊かネットや古本屋さんで集めました。とても古い本ですが、見ていると、名古屋にはまだまだ実物が数多く残っているので恵まれている方だと思います。関西地方にもいくつか作品があったようですけど、阪神大震災で壊れてしまったものも多いんですよ。」

森上さんがモザイク壁画の魅力に目覚めたばかりの頃、そこにあると思って出かけた目当ての壁画が、すでに無くなっていたことがあった。

「あのときは本当に残念で。だから、今あるものだけでもその価値を私が伝えていきたい。時代の流れの中で間もなく無くなる運命ならば、みんなで見てあげることで、壁画の最後の花道を飾ってあげたいんですよね。」

いつまでもそこにあるものではないということ、そして、実際に見られるうちに見ておきたかったという後悔の思いを、今も忘れることができない。

WRITER PROFILE

谷 亜由子

放送作家として20年以上にわたり番組制作の現場で活動後、NPO「大ナゴヤ大学」の立ち上げに携わり企画メンバーとして活動。「SOCIAL TOWER PAPER」、「ぶらり港まち新聞」の企画・取材などを担当。地域活性プロジェクトなどの仕事では各地を旅しています。何かの奥に隠れているものを覗くのが好き。蓋のある箱の中身や閉ざされた扉の奥にある空間、カーテンの向こう側の景色が気になります。人の心の奥にある思いや言葉を引き出す取材、インタビューが好きなのもそれと同じなのかもしれません。