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過去の過去は未来、アナログとデジタルのあいだを豊かに。
納屋橋饅頭が受け継ぐ文化と心

TEXT : 石黒 好美

2018.05.21 Mon

「未来に悩んだときは、過去の過去を見つめ直すんです」-「納屋橋饅頭 万松庵」当主の中島康博さんはこう語ります。大須にお店を開いてから100年、万松庵と名古屋のまちの「過去の過去」のお話をお聞きしました。
 

ルーツは納屋橋の渡り初め式

「納屋橋饅頭」の名前の由来は、堀川にかかる納屋橋。明治時代から貿易港となった名古屋港への輸送路として重要な役割を担っていた堀川と、栄にあった県庁と名古屋駅をつなぐメインストリートで、路面電車も通っていた広小路通り。この二つが交差する納屋橋は、豊田佐吉の自動織機や日本陶器(現:ノリタケカンパニーリミテド)の白色磁器など、現在につながる産業が興った時代の「発展する名古屋のシンボル」でした。

大正2年に架け替えられた名古屋市民の誇りの納屋橋は、当時の技術の粋を集めて作られました。流行していたアールヌーボーのデザインを取り入れた欄干は、富山から呼び寄せた職人が実現したもの。美しいアーチは「官営八幡製鉄所」の最新鋭の設備によるものです。

現在の納屋橋(昔の姿をできるだけ残して昭和56年にも架け替えられた。

 

完成した納屋橋の渡り初め式には、「三代の夫婦が揃っている縁起のよい家族」が最初に渡るという習わしがありました。納屋橋のたもとに店を構えていた饅頭屋の「伊勢屋」とうどんの「三輪辨」(現:長命うどん)の二家族が選ばれ、いとう呉服店(現:松坂屋)の音楽隊に導かれて賑やかに6組の夫婦が渡りました。ハイカラな橋と渡り初めを一目見ようと、この日はなんと5万人もの人が集まったそうです。「伊勢屋」はこれを機に「納屋橋饅頭」と改名。渡り初め式の様子は今も万松庵の包装紙を彩っています。

渡り初めを記念して納屋橋饅頭初代当主が作って配布した3つセットの盃

 

この後、納屋橋饅頭に奉公していた中島一一(かずいち)に暖簾分けされ、大正8年に大須に開店したのが「納屋橋饅頭 万松庵」です。現在は気軽なお茶請けとしておなじみの酒まんじゅうですが、当時は蒸したてのまんじゅうをアツアツのまま、店頭で頬張る人が多かったとか。

「現在のファストフードのようなものだったのでしょうね」。

 

高度経済成長とともに育つ

「大須には昔『鈴木屋』という駄菓子屋がありました。子どもの頃にはそこで、よくお好み焼きを食べていましたねえ」。

万松庵の三代目となる中島康博さんは昭和31年生まれ。幼い頃から大須の商店街で育った中島さんは、当時の様子を懐かしく振り返ります。

「お好み焼きや駄菓子だけが目的じゃないんです。『お小遣いであといくつ買えるか』とか『くじ付きの菓子を買ったほうが得かな』とか考えるのが面白いんです。鈴木屋のおばさんに相談すると、ヒントを出して考えさせてくれたり、ズルしようとして厳しく叱られたり。

紙芝居屋もよく来ました。これも紙芝居より、違う学年の子と交流したり、隣の学校の様子を知るのが楽しみでね。紙芝居を見るには水あめを買わなきゃいけない。しかし、うちは和菓子屋だから家に帰ればいくらでも高級な水あめがある。でも紙芝居のためにわざわざ買ってね。(笑)お金や物の大切さ、言葉の使い方、コミュニケーションなど、遊びを通じて本当にたくさんのことを学んでいたんです」。

昭和30年頃の納屋橋饅頭大須万松寺通店(写真提供:中島康博さん)

中島さんが育った家は、1階が万松庵のお店、2階が自宅。そして、3階には住み込みの従業員が下宿していたそうです。

「従業員は10数人いましたかね。ご飯も一緒に食べて、毎日合宿みたいでした。(笑)全員がいちどには食べられないので、先輩から順に大皿のおかずを取り分ける。トイレも順番です。店の息子だからって関係ないですよ。年上の人を敬うとか、みんなで暮らすルールを自然に覚えましたね」。

時代は高度経済成長。名古屋には「100メーター道路」と呼ばれておなじみの久屋大通、若宮大通ができ、地下鉄も開通しました。東海地方の中核となった名古屋の産業を支えていたのは、中学を卒業してすぐに長野や新潟などの農村から集団就職でやってきて、住み込みで暮らす人たちでもありました。

昭和36年頃の大須商店街。できたばかりのアーケードの完成記念式典の様子。

現在の大須商店街。海外からの観光客も目立つ。

 

発酵のメカニズムで製法を進化

中島さんは大学進学にあたっては「醸造学科」という学科を選びました。

「万松庵を継ぐならば、経営より『発酵』の勉強をしてほしいと父親に勧められたからです」。

納屋橋饅頭は蒸し米と麹で甘酒を造り、酵母で発酵させて生地をふっくら、香り高く仕上げるのが特徴です。しかし発酵度合のコントロールが難しく、当時は四六時中付きっきりで管理しなければなりませんでした。

「夏は暑くて発酵が進みやすいので、発酵樽の横に氷柱を置き、ふきこぼれないよう2時間おきにかきまぜる。逆に、冬は発酵室に裸電球を何本も吊るして夜通し温めるんです。みんなが休む間もなく苦労しているのを見て、何とかできないかと思っていました」。

万松庵では「『発酵』に微生物のはたらきが関係するようだ」ということは分かっていたのですが、その仕組みについて詳しく知る人はいませんでした。中島さんは大学で発酵学を学び、入社後も研究を続けました。そして、ついに空調を完備した発酵室を導入。温度や時間を数値で管理できるよう工程も見直しました。

「でも、すべてを数字で把握しているわけではありません。8割くらいは理論化・数値化していますが、最後の重要な2割は職人の手がなければ商品にはなりません。例えば、名古屋は湿度が高いので夏季は「あんこ」の糖度を少し下げ、冬季は少し上げます。でも、食べてみると『いつも同じ万松庵の味』と感じられる。こうした微妙な調整は機械では絶対にできない、いわば『人間の“ベロ”メータです』」。

伝統にテクノロジーの力を取り入れ、少ない人手で安定した品質の商品を作れるようにした中島さん。しかし、その目的は効率よく、たくさんの商品を作るためだけではありませんでした。

「数値化できる8割の部分をデジタルとすると、2割はアナログ的な価値です。最近は何でも効率重視で、いかに速く、多くの結果を出せるかということに躍起になっていますよね。でも、デジタル化は目的でなく、手段でしょう」。

中島さんは商品の製造工程だけでなく、人材育成にも「基礎の部分は効率よく覚えてもらい、2割の部分で個性を生かす」という工夫をしているそうです。

「昭和40~50年代ごろでしょうか。下積みが長くて耐えられず、職人さんたちが途中で辞めてしまうことが多かったんです。どうしようかと考えたときに、それぞれの人の素質を生かす環境を整えようと。基礎の8割を数値化して習得してもらい、本人の努力や工夫の成果が表れる2割の部分を発揮できる機会を、たくさん作ろうと思ったんです」。

 

アナログとデジタルのあいだを豊かに

「今は子どもの頃から何でもデジタル。便利な道具だったはずが、若い人たちは場面に合った言葉づかいや、丁寧に思いを伝えるコミュニケーションが苦手になっている気がします」。

「かつての駄菓子屋や紙芝居で出会ったような、生の体験や多世代の交流が失われたことで、アナログ的な価値を重んじる人が少なくなってしまったのではないか」と中島さんは危惧します。

「デジタルは0か1かの世界。いかに早く結果を出すかを競いがちですが、本当は0と1の間が楽しいんですよ。『鈴木屋』のおばさんのヒントをもとにあれこれ悩むのも、菓子のアイデアを思いついてから実現するまでの試行錯誤も楽しい。人生だって、誕生から死までの間だけが自分で選んで、決めて、楽しめる時間じゃないですか」。

結果よりも過程、はじまりとおわりの時間の「あいだ」を味わう―それは、納屋橋饅頭万松庵が受け継いできた、和菓子の文化を大切にしてきた価値でもありました。

「少し立ち止まってお茶をいただく、季節を楽しむ。そんな文化を知らない人が増えてきました。でも、それはきちんと伝えてこなかった、私たち和菓子屋の責任でもあると思っているんです」。

中島さんは「名古屋生菓子組合」など同業者と一緒に和菓子の伝統とともに、日本の四季や慣習を伝えるパンフレットを作るなど、こつこつと啓発活動にも努めています。万松庵が「やっとかめ文化祭」に参加しているのも、その活動の一環です。

また「納屋橋デニッシュ食パン」など、万松庵ならではの技術を生かした新商品も開発しながら、工場に近い名古屋市内の店舗での販売を強化しています。店頭で饅頭を頬張っていた「渡り初め」の頃のように「少しでも早く、蒸し立ての香りたつ納屋橋饅頭を楽しんでもらいたい」という願いからです。

「幕末の武士は戦国大名を、徳川家康は源頼朝を研究していたそうです。最初に『過去の過去は未来』と言いましたが、時代が動くときには、みな古い過去を参照しているんですね。めまぐるしく時代は移りますが、かつての時代を思い返して、変えていくべきもの、変えてはいけないものとは何かをじっくりと考えることも大切ではないでしょうか」。


現在の納屋橋饅頭大須万松寺通店。「揚げまん棒」や「ハイカラモナカ」を片手に大須散策をする人も。軒の上の大看板は戦前からのもの。(昭和30年頃の店舗写真と同様)

 

納屋橋饅頭 万松庵
名古屋市中区大須2-6-11
052-201-7884
http://www.7884.co.jp/

WRITER PROFILE

石黒 好美

NPO・CSR・ソーシャルビジネス・福祉・医療などの分野で書いています。書くことを通じて人と社会のさまざまな構造にはたらきかける「ライティング・ソーシャルワーク」の実現を目指して試行錯誤中。好きな名古屋弁は「ぬくとい」、好きな名古屋めしは味噌煮込みうどんと台湾ラーメン、好きな名古屋のアーティストはTOKONA-Xです。
ブログ「#レコーディングダイエット」